ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第534話 太平洋戦争最初の日本人捕虜・酒巻和男の胸中

序文・捕虜として生きる教え

                               堀口尚次

 

 酒巻和男大正7年 - 平成11年は、海軍軍人、後にビジネスマン。太平洋戦争劈頭(へきとう)〈最初〉の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として参加。艇が座礁し、太平洋戦争における最初の日本人捕虜となる。

 酒巻は海軍少尉として、特潜の搭乗員に選抜されたが、出撃前の検査において羅針儀が故障していることが判明した。潜水艦母艦においては羅針儀の修理が不可能であり、羅針儀なしでの出撃という危険な状況になるにもかかわらず、酒巻は出撃することを主張しこれが認められた。 

 12月6日にはオアフ島沖で「特潜」は母船から離され、真珠湾内のアメリカ海軍艦艇を攻撃するために進んでいたものの、羅針儀が故障していることもあり水深が浅い海域に迷い込み珊瑚礁座礁した。その後、アメリカ海軍の駆逐艦ヘルムの攻撃を受けたが、これをかわし湾外に逃れたものの最終的に再度座礁した。

 座礁後に「特潜」の鹵獲(ろかく)〈戦地などで敵対勢力の装備する武装や補給物資を奪うこと〉を防ぐ為に時限爆弾を仕掛け、同乗していた稲垣清二等兵曹と共に脱出するが、漂流中に稲垣ともはぐれ〈稲垣はその後遺体となって発見された〉、酒巻自身も酸欠による失神状態で海岸に漂着していたところを、ハワイ州兵第298歩兵連隊G中隊の伍長デビッド・アクイに発見され、対米戦争での最初の日本人捕虜となる

 この時、真珠湾攻撃で使用された「特潜」は全部で5艇〈乗員10名〉であったが、当初は全艇が集合地点に帰還しなかった上に、米軍のラジオ放送などで撃沈されたと報じられたことから全員が戦死したものと考えられた。その後、米軍のラジオ放送から酒巻が生存し捕虜となったことが公表されたものの、酒巻が捕虜となったことは日本海軍によって秘密にされた

 日本海軍は酒巻以外の全員を戦死扱いとし、大本営は戦死した9名を「九軍神」として1942年3月に発表した。酒巻の15歳年下の弟は、実家を訪ねてきた海軍将校が特殊潜航艇乗り組みであることは伏せて「戦死」と伝え、後日来訪した将校は「生死不明」としたうえ他言無用と告げたことを記憶している。

 捕虜収容所では自決を願うも拒否された。収容所で真珠湾攻撃のために収容されていたハワイ浄土宗第8代総長の名護忍亮師から捕虜として生きていく教えを受け〈名護も日露戦争に従軍して捕虜になった経験を持つ〉、ハワイの収容所からアメリカ本土の収容所に移された後は、同じく自決を決行しようとする日本軍兵士捕虜に対し、自決を止める様に説得して止めさせている。

 日本語通訳としても働き、捕虜としての態度が立派であったため、アメリカ軍関係者も酒巻を賞賛した。

 終戦後の昭和21年にアメリカから復員した。復員後は同姓の酒巻家の婿養子となる。捕虜時代を共にした豊田穣は『中日新聞』記者として酒巻の談話を発表した。

 捕虜になることを恥とする価値観は敗戦後もすぐには消えず、酒巻の復員が報道された後に届いた封書には「割腹して詫びよ」と記されたものやナイフを同封したものもあった。日本が開戦した12月8日が近づくと新聞やテレビ局の記者が酒巻を訪ねることが続いたが、一部を手記に発表したほかは、家族には戦争のことは話さなかったとされる。

 酒巻は結婚し、知人の紹介でトヨタ自動車工業へ入社した。バドミントン部を創設するなど面倒見がよいことで知られ、捕虜生活で学んだ英語を生かして輸出部次長などとして勤め、昭和44年に同社のブラジル現地法人である「トヨタ・ド・ブラジル」の社長に就任した。同地にて日系商工会議所専務理事も兼任し、昭和62年にトヨタ自動車を退職。平成11年11月29日、愛知県豊田市で死去。81歳没。

 長男の潔は小学校時代、父に自分の名の由来を尋ねたところ「読んで字の如く『いさぎよし』だ」と教えられたが、甲標的に同乗した稲垣清の遺族を三重県に訪ねた折、戦友の名もちなんでいるかも知れないと思い至ったという。

 甲標的の訓練施設があった愛媛県伊方町では、「大東亜戦争九軍神慰霊碑」の隣に2021年12月8日、酒巻を含めた10人の「史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑」が、クラウドファンディングにより建てられた。碑には、出撃前に撮影された10人の写真が埋め込まれているが、戦時中、日本軍は酒巻だけを削って公表していた〈淵田美津雄=真珠湾攻撃の空襲部隊総指揮官 の回想による〉。