ホリショウのあれこれ文筆庫

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第543話 尼将軍・北条政子

序文・平氏

                               堀口尚次

 

 北条政子、平(たいらの)政子は、 鎌倉幕府を開いた源頼朝の御台所(みだいどころ)。子は頼家、実朝、大姫、三幡。周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となった。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。頼朝亡きあと征夷大将軍となった頼家、実朝が相次いで暗殺された後は、鎌倉殿として京から招いた幼い三寅(みとら)〈後の藤原頼経〉の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。

 承久3年、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護・伊賀光季(みつすえ)を攻め殺して挙兵に踏み切った〈承久の乱〉。上皇は義時追討の院宣(いんぜん)を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏(おそ)れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。

 政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将頼朝の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言(ざんげん)により不義の綸旨が下された。藤原秀康三浦胤吉(たねよし)上皇の近臣を討って、三代将軍実朝の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表し、御家人の動揺は収まった。『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとしているが、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。

 本人が「北条政子」を名乗った事実は確認されておらず、あくまで後世の歴史用語に過ぎない。「政子」の諱(いみな)〈成人名、天皇に対する名乗り〉は、夫の死から19年後の建保6年、朝廷が従三位(じゅさんみ)の位を授与するのに際して、位記(いき)〈辞令〉などの文書に記載するため、3年前に死去した父時政の一字〈偏諱(へんき)〉を取って授けた名前であり、それ以前の名前は不明。嘉字〈良い字〉+子型の人名は官位を受けるときなどに名乗るもので、当時の社会通念上、出生名に政子とつけることはない。幼名は鎌倉時代末期成立の『真名本曾我物語』では「万寿」、室町時代の『仮名本曾我物語』では「朝日」となっているが、信憑性は不明。中世の女性は外向けには実名〈幼名または諱〉を名乗らないのが社会通念だったから〈忌み名のタブー〉、娘時代の呼称はおそらく「大姫」〈在地領主の長女の意〉、公文書には「平氏女(たいらのうじにょ)」と署名していたと推測される。

 諱を受けた当時の一般的な呼称は「尼御台所」。現代日本でも目上の人を呼び捨てにすることは非礼とされるが、この時代は実名呼称回避の慣習が特に強力な時代であり、2代将軍源頼家ですら北条一門の実名を呼んだことが確執の一因になったほどであった〈『吾妻鏡』〉。親や夫は既に死去しているうえ、出家の身である彼女が日常的に法名や仮名ではなく「政子」を名乗り、かつ人々に呼称された可能性はほぼない。

 鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡』は、「前漢呂后(りょごう)と同じように天下を治めた、または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護(ようご)させ給わった」と政子を称賛している。同時代の人物である慈円は『愚管抄』で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した。1230年頃に書かれたとされる『承久記』では「女房〈女性〉の目出度い例である」と評しているが、この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐させている。

 室町時代一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ奈良時代の女帝〈元正天皇や後謙天皇〉の故事をひいている。北畠親房の『神皇正統記』や今川了俊の『難太平記』でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。

  江戸時代になると儒学の影響で人倫道徳観に重きを置かれるようになり、『大日本史』や新井白石頼山陽などが政子を評しているが、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子〈頼家、実朝〉が変死して婚家〈源氏〉が滅びて、実家〈北条氏〉がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判を加えている。またこの頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となる。政子を日野富子淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。