ホリショウのあれこれ文筆庫

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第545話 鎮西八郎為朝

序文・頼朝の叔父

                               堀口尚次

 

 源為朝(ためとも)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口〈現・大阪市東淀川区江口〉の遊女。源頼朝義経兄弟の叔父にあたる。

保元物語』によると、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西(ちんぜい)八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したことから、追討を受け自害した。

 伊豆大島では今でも為朝が親しまれており、為朝の碑も建てられている。島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝の剛勇ぶりにあやかって「ためともさん」と呼ぶのもその名残である。

 真偽不明ながらもその豪勇から各地に為朝の伝説が残っている。

 為朝は疱瘡〈天然痘〉が流行した時代にも病にかからなかったといわれ疱瘡(ほうそう)に対する守り神とする伝承が数多くある。歌川国房画「鎮西八郎為朝」の疱瘡絵では疱瘡神から病をり患させないよう手形を受け取る為朝の絵が描かれている。

 源義経は本当は八男だったが、源氏の勇者の一人にあたる為朝に遠慮して、八郎ではなく源"九郎"義経を名乗ったといわれる。

 横浜市港南区上大岡東1-8付近は八郎ケ谷と呼ばれ、落人となった為朝が隠れ住んだといわれる。ここに「為朝の祠」があり、今でも4月25日に近隣の人々が供養している。 

 12月13日の中日新聞の「中日春秋」に以下の記述があった。

「鎮西八郎為朝御宿」。アワビの貝殻にそう書いて、戸口につるしておく。「わが家には源為朝のように大豪傑が泊まっているんだから入ってきてはならない」。疫病神へのおどし文句なのだろう。四国地方に伝わる魔除けだそうだ。殻の硬さや祝いのノシに使われる縁起の良さも関係あるのか、かつてアワビの殻は魔除けよく使われた。大阪では風邪の流行時、殻に「子ども留守」と書き、つるしたという。風邪に対し「子どもはいないので入ってきても無駄よ」という意味だろう。』