ホリショウのあれこれ文筆庫

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第548話 伊賀氏の変

序文・北条義時毒殺の疑惑

                               堀口尚次

 

 伊賀氏の変は、鎌倉時代前期の貞応3年6月から閏7月にかけて伊賀氏によって起こった鎌倉幕府の政変。

 第2代執権・北条義時の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻継室伊賀の方が、伊賀の方の実子・政村執権就任と、娘婿・一条実雅の将軍職就任を画策した。光宗は鎌倉御家人の中でも実力があり政村の烏帽子親である三浦義村と結ぼうとするが、伊賀氏の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は、京から鎌倉に戻った義時の長男・北条泰時を執権に就任させる。また義村に対し泰時への支持を確約させ、伊賀氏の政変を未然に防ぐことに成功した。これにより伊賀氏の陰謀は頓挫する。伊賀の方は伊豆北条へ、光宗は信濃へ、光宗の弟朝行・光重は九州へ配流となり、公卿である実雅は朝廷に配慮して京都へ送還された後に越前へ配流となった。

 しかし彼らに担ぎ上げられそうになった当の政村は処罰を免れ、後に要職を経て第7代執権に就任し、終始得宗家に忠実な姿勢を貫いた。また、主犯として処罰を受けた光宗やその弟の朝行・光重も、政子の死後間もなく幕政への復帰を許されるなど、寛大な措置が採られた。

 これについては、まだ幕府は黎明期で体制が安定しておらず、あまりにも厳重な処分を下せば波紋が広がり幕府の基盤が揺らぐという憂慮に基づく裁定だったとする解釈や、将軍後継として京より迎えられた三寅〈後の将軍・九条頼経〉の側近で義時の娘婿でもあった一条実雅は既に鎌倉内外の御家人に強い人脈を形成しており、泰時は武力衝突の回避と反泰時派の炙り出しの意味も含めて慎重に対応し続けたとする見方もある。しかし、伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある。

 なお、藤原定家の『明月記』によると、義時の死に関して、実雅の兄で承久の乱の京方首謀者の一人として逃亡していた尊長が、義時の死の3年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで、武士たちを驚かせている。