ホリショウのあれこれ文筆庫

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第562話 斗南藩の因縁と軋轢

序文・会津藩の最期

                               堀口尚次

 

 斗南(となみ)藩は、明治2年11月3日に前会津藩主・松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した、七戸藩を挟む形で現青森県の東部にあった藩である。

 ただし、旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれたのは翌年の明治3年1月5日のことである。当初は三戸藩と称していたが、明治3年6月4日付の七戸藩宛書簡に「猶々藩名斗南藩と唱ヘ候間、以来ハ右藩名ニ而及御懸合候」とあり、名称を斗南藩と改めた。会津藩出身の陸軍大将・柴五郎によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」〈北斗星より南はみな帝の治める州〉からとったもので、この説が広く受け入れられている。また「南、すなわち薩長政府と斗う」という意味が隠されているという口伝もあ

 斗南藩の表高は3万石、内高は3万5000石であったが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高〈現石〉は7380石に過ぎなかった。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じた。とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられた。   

 その後、斗南藩明治4年7月14日の廃藩置県で斗南県となり、その際斗南県少参事らによる明治政府への建言により、同年9月4日に弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併を経て青森県編入され斗南の地名は消滅した。また、二戸郡の一部は岩手県編入された。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7327人のうち3300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4000人余の斗南藩士卒族が残留していた。その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年末までには約1万人が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年に元藩士らが日本初の民間洋式牧場を開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。松平容大明治17年に子爵となり、華族に列した。