ホリショウのあれこれ文筆庫

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第563話 三河一向一揆

序文・松平家康の苦悩

                               堀口尚次

 

 三河一向一揆は、戦国時代に三河国の西三河全域で永禄6年から永禄7年まで半年ほど行われた一向一揆である。松平家支配下にはなく曹洞宗の勢力が強かった東三河は該当しない。現在の安城市野寺の本証(ほんしょう)第十代・空誓〈蓮如の曾孫が中心となって浄土真宗本願寺門徒に檄を飛ばし、領主の松平〈後の徳川〉家康と戦った。『三州一向宗乱記』に「当国碧海郡野寺村の本證寺と申すは、一向宗浄土真宗本願寺派〉の小本寺にて、守護不入の道場、当国三箇寺の其の一箇寺なり」と記載されている。

 中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺および、三河守護家である吉良氏のほか、荒川氏、桜井松平氏、大草松平氏である。また安祥(あんじょう)〈現在の安城松平家の麾下(きか)〈家来〉にあった本多正信、蜂谷貞次、夏目吉信が参加した。これは松平宗家である岩津松平に代わり台頭した安祥松平家が安祥に居城していた時代から、真宗門徒の地元勢力を支配下に収めたものであり、その最たるものは、本證寺門徒でもあった石川氏である。一族の間で門徒方と家康方に分裂するなど混乱を極めた。

 三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされる家臣団の多くが門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった。

 本証寺、上宮(じょうぐう)寺、勝鬘(しょうまん)寺は、三河における本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺と呼称され、松平弘忠〈家康の父〉の代に「守護使不入(しょごしふにゅう)の特権」を与えられていた。「守護使不入」は本来、鎌倉時代室町時代において幕府守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、幕府によって設定された特定の公領荘園〈公家や寺社の領地などに立ち入る事を禁じたことで、一見すると守護大名の領域に治外法権地域が生まれる事になり、室町幕府の支配系統に障害が生じたかのように見られるが、実態はそれとは反対で守護領国制の強化によって守護大名による領国一円支配を阻止してその勢力拡大を抑制するとともに、特権を受けた御家人層は幕府権力への依存を強めてこの権利を維持しようと図り、幕府にとっては守護大名に対抗するための政治的・経済的・軍事的な基盤を支える支持の形成に効果があった。しかし戦国時代に入り、幕府の権威は低下して下剋上によって幕府の力に依存せずに自力で領国を形成した戦国大名達はこの特権を否定し始めるとともに、自らの権限としてこれを付与あるいは剥奪を行うようになっていった。更に幕府によって出された守護使不入の規定に従ってきた守護大名の中からも領国の維持を名目に幕府による守護使不入の権利を公然と否定する措置を取る者が出るようになった。

 永禄7年1月15日の馬頭原合戦の勝利で、徳川家康は優位に立ち、和議に持ち込み、一揆の解体に成功する。和議の仲介にも関わった水野信元の書状には永禄7年の春には和議が整って国内が平穏になったことが記されている。その後、同年4月には小笠原氏が家康に従い、その後も抵抗を続けた吉良氏と酒井忠尚は追放されている。

 一揆に与した武士の中には、主君への忠誠心と信仰心の板ばさみにあって苦しんでいる者もあった。その様な武士には一揆を離脱して帰参することを望む者が多くいたため、一揆は収束に向かった。またこの時、本宗寺は御坊を焼失し、勝鬘寺は伽藍を焼失していた。家康は和議を結ぶことで一揆衆を完全に解体させた後、本願寺の寺院に他派・他宗への改宗を迫り、これを拒んだ場合は破却した。

 一方、本願寺の寺院の弾圧については次の見方もある。家臣の離反に悩まされた家康は自分に味方した家臣に対して徳政令を出して本願寺の寺院など敵対者からの債務の返済を免除した。ところが、一向一揆との和議後にその扱いが問題になった。和議の仲介にあたった水野信元は徳政令の一部でも認めて欲しいと本宗寺などに申し入れるが、本願寺の寺院は徳政令は和議の条件に反すると反発した。和議の条件と家臣との約束の間で追い詰められた家康は永禄7年12月もしくはそれ以降に本願寺の寺院の弾圧に踏み切ったとされる。

 一揆終結より19年後の天正11年まで、三河国本願寺教団禁制の地となった。しかし、家康は本願寺教団に厳格な処分を下す一方、離反した家臣には寛大な処置で臨む事で家中の結束を高める事に成功した〈本多正信など、一部の家臣は出奔した〉。この一揆は、三河における分国支配の確立を目指した家康に対して、その動きを阻もうと試みた一向宗勢力が、一族や家臣団を巻き込んで引き起こしたものである。その意味では、松平宗家〈徳川家〉が戦国大名として領国の一円支配を達成する際に、必ず乗り越えなければならない一つの関門であったと考えられる。

※堀を持つ城郭のような本証寺