序文・徳川家康の母
堀口尚次
於大(おだい)の方(かた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。岡崎城主松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。
享禄元年、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその妻・華陽院(けよういん)〈於富の方→駿府で今川義元の人質だった松平竹千代=後の徳川家康を元服するまでの8年間養育する〉の間に、忠政の居城・緒川城〈愛知県知多郡東浦町〉で生まれた。
父・水野忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康〈家康の祖父〉の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせ、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせた。天文11年12月26日、於大は広忠の長男・竹千代〈後の家康〉を岡崎城で出産した。
忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・信元が、天文13年に松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁された。実家・水野氏の三河国刈谷城〈現刈谷市〉に返され、「椎の木屋敷」で暮らしたとされている。
於大は天文16年には兄・信元の意向で知多郡の坂部城〈現・阿久比町〉の城主・久松俊勝に再嫁した。これは、俊勝が元々水野氏の女性を妻に迎えていたが、妻の死後は水野氏と松平氏の間で帰趨(きすう)〈おちつくところ〉が定まらなかったため、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間には3男3女をもうける。また、この間にも家康と音信を絶えず取り続けた。
永禄3年の桶狭間の戦い後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。天正3年12月、於大の兄の水野信元が謀反を疑った織田信長の命令により、家康に殺され、水野家は一時滅亡した。この時、真相を知らずに家康の下へ信元を案内した久松俊勝は隠退してしまう。また家康の下へ行かずに、尾張国の久松家の所領を継いで織田家に仕えていた久松俊勝の子・久松信俊〈俊勝の先妻の子で、於大の子ではない〉も信長に謀反を疑われて大阪四天王寺で自害し、所領は没収された。於大は俊勝の死後、俊勝菩提寺の安楽寺で剃髪して伝通院と号した。