ホリショウのあれこれ文筆庫

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第565話 上杉鷹山と吉良上野介の関係

序文・格式が贅沢を助長したのか

                               堀口尚次

 

 米沢藩の4代藩主上杉綱憲(つなのり)は、旗本〈高家肝煎(きもいり)=公家接待の最高職〉吉良上野介義央(よしひさ)の実子〈長男〉で、上杉家に養子入りする。綱憲の孫にあたる8代藩主上杉重定に世継ぎがなく、婿養子となったのが、日向〈宮崎県〉高鍋藩主秋月種美(たねみつ)の次男松三郎〈後の上杉鷹山〉である。松三郎の外祖母が綱憲の孫娘になるので、上杉鷹山吉良上野介の玄孫にあたる。松三郎は、実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院の手元に引き取られ養育された。宝暦9年、この時点でまだ男子のなかった重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、婿養子として縁組を勧めたのが瑞耀院である。ちなみに、米沢藩が綱憲の代に特に藩財政が逼迫した原因の一つに、父である吉良上野介の格式を重んじる命令が関係しているとも言われている。旗本高家肝煎の立場からも、吉良には無理をしてでも、格式を落とさないという見栄が働いたのだと思われる。

 元禄14年3月14日には、江戸城内で吉良義央赤穂藩浅野長矩に傷つけられる事件が起こり、事件後に綱憲は生母・富子を屋敷へ引き取っている。翌年12月14日に赤穂浪士による吉良邸討ち入り〈赤穂事件〉が起こった。

 『忠臣蔵』を題材にしたドラマなどでは、父のために援軍を送ろうとする綱憲に対して家老の色部安長または千坂高房がこれを諌める場面が描かれる。しかし、色部安長は実父の忌日で上杉家に出仕しておらず、千坂高房に至っては2年前にすでに他界していた。この日に綱憲を止めたのは家臣ではなく、幕府老中からの出兵差止め命令を綱憲に伝えるべく上杉邸に赴いた、遠縁筋の高家・畠山義寧であった。

 こうした事情を知らない庶民は、討ち入りを行った赤穂浪士を義士として持て囃す一方、討ち入り後に行動を起こさなかった米沢藩の態度を不甲斐無いと見なした。そのため上杉謙信以来の武門の名家の名声は地に落ちて、江戸市中には「上杉のえた〈枝〉をおろして酒はやし 武士はなるまい町人になれ」「景虎〈謙信〉も今や猫にや成りにけん 長尾〈謙信の実家〉を引いて出〈いで〉もやらねば」などという落書(らくしょ)が大量に貼られた。

 名君で名高い米沢藩主の上杉鷹山が、忠臣蔵で悪名高き吉良上野介との関係性があったとは知らなかった。これだから歴史はおもしろい。