ホリショウのあれこれ文筆庫

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第567話 開削された対馬

序文・海軍の都合で開削された

                               堀口尚次

 

 私は、対馬といえば日本海に浮かぶ朝鮮半島に近い島で、沖縄のような一つの島であるイメージであったが、今回人工的に開削された島であることがわかった。

 主島は対馬島で、このほか属島として6つの有人島と102の無人島がある。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」「対馬諸島」とすることがある。

 対ロシア帝国、対ソビエト連邦の防衛上の重要拠点であり、冷戦時代はソ連軍の軍用機や潜水艦が頻繁に出没していた。

 主島はかつて1つの島だったが、地峡〈海峡の逆で2つの陸塊をつなぎ水域海や湖 に挟まれて細長い形状をした陸地〉となっていた部分に運河として、寛文12年に大船越瀬戸が、明治33年に、満関瀬戸が開削され、細長い主島は南北3島に分離された。過去には南部を上島(かみしま)、北部を下島(しもじま)と呼んだこともあったが、現在は万関瀬戸より北部を上島、南部を下島と呼ぶ。

 明治33年に旧大日本帝国海軍によって、浅茅湾内の竹敷港にあった竹敷要港部から佐世保鎮守府までの所要時間を短縮するための航路として開削された。当時は幅約25メートル、深さ約3メートルであった。明治38年に起きた日露戦争日本海海戦では水雷艇部隊がここを通って出撃した。

 明治37年には、日露戦争に備え対馬海峡の重要性から要港部司令官が親補職となり、幕僚として、参謀長、参謀、副官、機関長、軍医長、主計長が配置された。また、バルチック艦隊から浅茅湾を防衛するため、郷山・樫岳・多功崎・廻の各砲台の建設に着手した。日露戦争における日本の勝利を決定的なものとしたことで知られる日本海海戦は、海外では"バトル・オブ・ツシマ"〈対馬の戦い〉の名称で知られている。実際にその名の通り竹敷港や尾崎港からは連合艦隊水雷艇が出撃している。この海戦の砲声は対馬に届いたといわれ、また、上対馬の殿崎・茂木・琴などの住民は、海岸に漂着した多くのロシア兵の救命救助をおこない、宿や食糧を与えている。

 尚、昭和24年、大韓民国〈韓国〉初代大統領の李承晩(りしょうばん)は「対馬は韓国領」として日本に「返還」を要求した。また、第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍総司令部GHQ〉 に対し、「歴史的にこの島は韓国の領土であり、日本によって強制的、不法に占領された」と述べ、日本からの割譲を要求している。

※海軍によって開削された満関瀬戸