堀口尚次
大樹寺は、愛知県岡崎市鴨田町にある浄土宗の寺院。 徳川氏〈松平氏〉の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍の位牌が安置されている。正式には成道山松安院大樹寺と称する。
応仁元年8月23日、尾張品野、三河伊保の軍兵が大挙して井田野に攻め寄せた。安城松平家当主の松平親忠は500余騎でこれを迎え撃ち、一夜と半日の戦いで破った。この第一次井田野合戦おける戦死者を弔うため、親忠は現在の岡崎市鴨田町字向山の地に千人塚を築いた。
その後、文明7年になって、塚が振動し、近辺には悪病が流行するようになった。この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建てた。そして、鴨田の旧館址に一寺を建立した。増上寺開山聖聡の孫弟子の勢誉愚底(せいよぐてい)を講じて七日七夜の間、別時念仏を修し、勢誉愚底を開山としてこの一寺を大樹寺と称した。寺号の「大樹」は征夷大将軍の唐名(とうめい)〈中国の官称〉であり、寺伝では、松平氏から将軍が誕生することを祈願して勢誉愚底により命名されたと伝えられているが、釈迦入滅地の沙羅双樹にちなんだものとの説もある。
親忠により大樹寺は安城松平氏の菩提寺とされた。松平郷の高月院にあった墓から分骨され、親忠は、先代3代であるまつだ松平親氏、松平康親、松平信光の墓をそれぞれ大樹寺に移設した。なお、信光明寺には現在も親氏、泰親、信光の墓である3基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残っており、そのため、大樹寺にある3氏の墓は信光明寺から移転したものとも言われている。天文4年、岡崎松平家当主の松平清康により再興され、一層方形二層円形の多宝塔が建立された。
大樹寺に安置されている江戸幕府歴代将軍の位牌は、それぞれ将軍の臨終時の身長と同じという説がある。なお、15代将軍慶喜の位牌は大樹寺に置かれていない。これは将軍職を引いた後も存命であったことと、臨終に際し自らを赦免し爵位まで与えた明治天皇に対する恩義から神式で葬られることを遺言したためである。当時の平均身長から大きく外れているのは綱吉と家継の位牌であるが、これを根拠に綱吉が低身長であった、家継が高身長であった、などの説が存在する。