序文・徳川家のルーツ
堀口尚次
松平郷は、三河国の戦国大名から江戸幕府の将軍家へと発展する松平氏・徳川氏の発祥地の郷である。巴川〈足助(あすけ)川〉東岸の山地の中の小集落で、三河国加茂郡に属し、現在の愛知県豊田市松平町にあたる。一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されている。
徳川の家譜などでは、松平親氏(ちかうじ)が松平郷に到来したとなっているが、松平の村落名の初見は、天文元年8月29日の足助町四ツ松の十明神社唐櫃銘の三州松平に住む前出雲守沙弥道悦〈松平長親(ながちか)=家康の高祖父〉が奉納したとするものである。それに対して、松平氏の姓名のほうは、親元(ちかもと)日記〈室町時代の政所(まんどころ)執事代・蜷川親元の日記〉に、寛政6年5月26日松平和泉入道〈信光〉とあるのが初見。また、寛正年間に菅浦文書から、松平益親という人物がいたこともわかっている。
15世紀以前の松平郷についての詳細は明らかではない。後世まとめられた松平氏の系譜によると、賀茂神社系の賀茂氏の末裔に当たる松平信盛が松平郷を開拓しその領主となり、松平太郎左衛門少尉を通称とした。つまり松平郷領主の松平氏である。
14世紀の末に南北朝時代の争乱で没落した世良田氏〈得川〉の出身と称する時宗の放浪僧の徳阿弥が父の長阿弥〈世良田有親〉とともに現地に流れ着き、当時の松平郷領主である松平信重〈信盛の後裔の松平信頼の子〉は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を買う。徳阿弥は還俗し、その娘婿となり松平太郎左衛門親氏と名乗り、松平郷領主の松平氏の名跡を相続したという。親氏は松平郷の一角に松平城〈郷敷城〉を築き、その嫡子〈実際は弟か叔父〉とする泰親(やすちか)とともに近隣十数か村を切り従えたと伝えられるが、親氏は実在したかどうか疑問をもたれている。泰親を継いだ信光は額田(ぬかた)郡に進出し、岩津城〈岡崎市岩津町〉に本拠地を移した。このときの松平郷は、泰親の子で、信光の叔父〈実際は親氏の子で、信光の長兄〉の松平信広に譲られた。信広の子孫は松平郷を世襲し、代々「松平太郎左衛門」を通称として、松平郷松平家〈挙母松平家〉となった。