ホリショウのあれこれ文筆庫

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第574話 大高城と対峙した丸根砦と鷲津砦

序文・桶狭間の戦いの前哨戦

                               堀口尚次

 

 大高(おおだか)城は、尾張国知多郡大高村〈現在の名古屋市緑区大高町〉にあった日本の城。桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康〈後の徳川家康〉が「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。現在は国の史跡に指定され、公園として整備されている。天文17年、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。しかし信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海(なるみ)城主の山口教継(のりつぐ)の調略で、大高城は沓掛(くつかけ)城〈現・豊明市名古屋市に隣接〉とともに今川方の手に落ちる。この脅威に対して信長は「丸根砦」と「鷲津(わしづ)」を築き、大高城に圧力を加える。永禄2年、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城の守りに入る。翌永禄3年には、大高城の包囲を破りそのまま鵜殿長輝が守備についた5月18日夜には、大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死〈桶狭間の戦い〉を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった。

 丸根砦は、永禄2年、織田信長今川義元との領土争いの前線として鷲津砦や善照寺砦〈鳴海城と対峙〉とともに整備した。場所は、鷲津砦の東南400メートル、大高城からは東に約800メートルに位置し、鳴海から延びた丘陵の先端に築かれ、東西36メートル、南北28メートルの砦の周囲を、幅3.6メートルの外堀が囲んでいる。永禄3年5月19日、桶狭間の戦いの前哨戦が行われ、佐久間重盛を将とする織田軍が立てこもったが、松平元康率いる今川軍に敗れ全滅したといわれている。その後、三河で独立した徳川家と織田家が同盟関係になったため存在意義を失い、そのまま放棄された。

 鷲津砦は、永禄2年に織田信長によって築かれ、翌永禄3年には桶狭間の戦いの前哨戦が本砦を巡って行われている。大高町のうち、字鷲津山の丘陵がその故地とされ、昭和13年12月14日に大高城跡が国の史跡に指定された際、丸根砦跡と共に約1.455ヘクタールの範囲が「附(つけたり)〈文化財〉」として指定されているが、正確な所在地ははっきりしていない。

 上記の三カ所は、筆者の自宅から近いので過日徒歩にて現場確認に出かけた。それぞれ小高い丘の上にあり、ひと時の間だが、戦国時代の息吹が感じれた。