序文・行き過ぎた廃仏毀釈
堀口尚次
苗木藩は、現在の岐阜県中津川市苗木に存在した、最小の城持ちの藩。居城は苗木城。美濃国の恵那郡の一部と賀茂郡の一部を領地としていた。
藩政においては小藩ゆえの、幕府の相次ぐ手伝い普請や軍役などにより、財政窮乏(きゅうぼう)が早くから始まる。歴代藩主は藩政維持のため厳しい倹約令を出し、天保年間には給米全額の借り上げを行うなどした。
明治維新後、14万3千両、藩札1万5900両あった藩の借金は、苗木城破却に伴う建材や武具などの売却、藩士卒全員を帰農、家禄奉還させ家禄支給を削減し、さらには帰農法に基づいて旧士族に政府から支給される扶持米を大惨事〈現在の副知事〉以下40名が3年間返上させること、知藩事〈現在の都道府県知事〉遠山友禄(よもよし)の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、明治4年8月には5万2600両、藩札5千両にまでに縮小した。しかし旧苗木藩士の生活は年々逼迫(ひっぱく)し、自殺者まで出る事態となった。
さらに明治4年の廃藩置県により、苗木藩は苗木県を経て岐阜県に吸収され、当初約束されていた家禄奉還の補償は不可能となった。また明治政府からではなく苗木藩庁の指示により他藩よりいち早く家禄奉還して、全員が士族から平民へ移っていたため、旧藩士卒は旧士族として認められないという事態に陥った。このことなどにより、財政改革や後述する廃仏毀釈を主導した大参事・青山直道に恨みが集中し、明治9年に旧藩士4名が青山の暗殺計画を決行、当人は当日不在だったため屋敷に放火される。明治24年にも襲撃未遂事件が起こっている。
維新直後、平田派国学の影響を受けた藩政改革が図られ、青山景道、青山直道の親子らが先頭に立って、領内で徹底した廃仏毀釈が実行された。明治3年9月27日、苗木藩庁は、支配地一同が神葬改宗したので、管内の15か寺の廃寺と、その寺僧たちに還俗を申し付けたことを、弁官〈中央役人〉に届けた。
岐阜県東白川村役場脇にある「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」。苗木藩の廃仏毀釈時に4つに割られて庭石などにされたのち、廃仏毀釈後に破片を集め修復されたもの。中央に割った時の跡が残る。