ホリショウのあれこれ文筆庫

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第577話 徳川宗家第16代当主・徳川家達の運命

序文・世が世なら将軍様

                               堀口尚次

 

 德川家達(いえさと)文久3年 - 昭和15年は、日本の政治家。徳川宗家第16代当主。もとは御三卿田安徳川家第7代当主で、静岡藩の初代藩主。幼名は亀之助。号は静岳。位階・勲等・爵位従一位大勲位侯爵。世間からは「十六代様」と呼ばれた。文久3年、江戸城田安屋敷において、田安家第5代当主・徳川慶頼の三男として誕生した。幼名は亀之助。慶頼は第14代将軍・徳川家茂将軍後見職であり、幕府の要職にあった。母は高井武子。家達は家茂および第13代将軍・徳川家定の再従兄弟(またいとこ)〈はとこ〉にあたる。元治2年、実兄・寿千代の夭逝(ようせい)により田安家を相続する。慶応2年に将軍・家茂が後嗣(こうし)〈跡継ぎ〉なく死去した際、家茂の近臣および大奥の天璋院や御年寄・瀧山らは家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また静観院宮〈和宮〉、雄藩大名らが反対した結果、一橋家の徳川慶喜が第15代将軍に就任した。大政奉還・王政復古・江戸開城を経て、慶応4年、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の元津山藩主・松平斉民(なりたみ)らが後見役を命ぜられた。当時、数え年で6歳だったが亀之助を改め、家達と名乗ることになった。

 約100人を共にした行列を連れて江戸を出発し、徳川家所縁の地である駿河府中へ向かった。6歳の家達に随行した者は以下のように記録している。「亀之助殿の行列を眺める群衆、それが何だか寂しそうに見えた。問屋場はいずれも人足が余計なほど出て居る。賃銭などの文句をいふ者は一人半個もない。これが最後の御奉公とでも云いたい様子であった。途中で行逢ふ諸大名も様々で、一行の長刀を見掛けて例の如く自ら乗物を出て土下座したものもある。此方は乗物を止めて戸を引くだけのこと。そうかと思へば赤い髪を被って錦切れを付けた兵隊が、一行と往き違いざまに路傍の木立に居る鳥を打つ筒音の凄まじさ。何も彼も頓着しない亀之助殿であった」。また年寄女中の初井は、駕籠の中から五人囃子の人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中の眺めを珍しげに尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている。

 6歳の家達にしてみれば、世が世であれば江戸幕府将軍様であったのだ。

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