ホリショウのあれこれ文筆庫

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第582話 御陵衛士と佐野七五三之助

序文・新選組えお袂を分かつ

                               堀口尚次

 

 御陵衛士(ごりょうえじ)は、孝明天皇の陵を守るための組織。高台寺党とも〈高台寺塔頭(たっちゅう)の月真院を屯所としたため〉。

 慶応3年に伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱、志し同じ者を新選組から引き抜いて結成した。一応の離脱理由は、泉涌(せんにゅう)寺塔頭戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、それに伴い薩摩藩長州藩の動向を探るという事であった。最初は五条橋東詰の長円寺に屯所を構えた。

一和同心〈日本国が心をひとつにして和する〉・国内皆兵・大開国大強国を基本とし、公儀による朝廷〈公卿〉中心の政体づくりを目指す独自の政治活動を展開した。

 新選組とは佐幕と勤王倒幕で袂を分かつただけに、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たという。ただし、近年の研究では倒幕といっても緩やかなものであり、松平春嶽らの思想に近かったものとも考えられており、薩摩藩とは一定の距離を置いていたという説がある。

 尾張名古屋藩藩出身の新選組隊士・佐野七五三之助(しめのすけ)は、元治元年10月に新選組に入隊し、四番組に所属。慶応3年3月に伊東らが新選組を脱退し御陵衛士を結成した際は、密命を受けて新選組に残留。6月10日の新選組幕臣取立てに反対して御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ、会津藩邸内にて切腹した。享年32。

 一説では、佐野は一旦蘇生し、検死にやってきた大石鍬次郎に斬りかかったといわれる。これは、一篇の古文書に書かれていたことが拡大したものとされている。また、切腹ではなく大石ら新選組よって惨殺されたともいわれ、佐野は大石に槍で腹を刺し抜かれたが、抜打ちで大石に手傷を負わせたといわれている。

 なお、佐野の懐中には辞世の句が所持してあり、「二張の弓引かましと 武士(もののふ)のただ一筋に思ひ切るなり」とされる。なお、第24代内閣総理大臣加藤高明は、甥(妹の子)にあたる。