ホリショウのあれこれ文筆庫

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第583話 家康の伯父・水野信元

序文・織田と松平の狭間で

                               堀口尚次

 

 水野信元は、天文12年、父・忠政の死去を受け水野宗家の家督を継ぎ、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した。異母妹に於大の方がおり徳川家康の伯父にあたる

 父・忠政は松平氏とともに今川氏についていたが、信元が緒川水野の家督を継いでまもなく松平広忠に嫁いだ信元の妹の於大の方が離縁されていることから、家督を受け継いだ当初より尾張国織田氏への協力を明らかにしていたと考えられる。また、元々水野氏と松平氏の婚姻同盟自体が広忠の叔父で後見役でもあった松平信孝が推進したもので、天文12年に広忠が信孝を追放していることから、松平氏の外交方針に変化が生じた〈敵対する信孝に近い水野氏との関係を切った〉とする説もある。

 信元は、織田信秀三河侵攻に協力するとともに、自らは知多半島の征服に乗り出し、松平広忠に離縁された妹の於大の方を、阿久比久松俊勝に嫁がせる。永禄5年、信長と家康が清須同盟を結ぶ際に、その仲介役となり、信元は家康が三河を平定した後も家康の相談に乗るなど強い影響力を持っていた。

 天正3年12月、信長の武将・佐久間信盛の讒言(ざんげん)により竹田勝頼の武将の秋山信友との内通や兵糧を輸送した疑いで、信長の命を受けた甥家康によって三河大樹寺において殺害され、同時に養子の信政も養父とともに斬られた。 法名は信元院殿大英鑑光大居士。刺客役を命じられた平岩親吉は、信元を斬ったのち屍を抱き上げ「信元どのに私怨はないが、君命によりやむをえず刃を向け申した」と涙ながらに詫びたという。案内役をしていた久光俊勝は「かかる事とも知らずして、信元迎え来て打たせたりし事の無慙(むざん)さよ。世の人のかえり聞かん事も恥ずかしとて、徳川殿を深く怨み、仲違いこそしたりけれ」と述べて、出奔(しゅっぽん)してしまう。夫に出奔された妹の於大の方とその子供たちは、家康の下に引き取られた。兄を殺された於大の方は、石川数正を深く恨み、これが後の家康嫡男・松平信康とその母・築山殿粛清や石川数正の出奔の原因と考える人もいる。

 私は過日、信元の墓所愛知県刈谷市天王町の楞厳(りゅうごん)寺を訪ねた。家康を助け、於大の方の異母兄として政略結婚に奔走した元信の最期は、甥の家康に手をかけられるという無惨なものだったが、乱世とはいえこの世の無常を感じざるを得ない。家康としても信長の命令とはいえ忸怩(じくじ)たる想いは拭えなかっただろう。