ホリショウのあれこれ文筆庫

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第592話 領土問題にしこりを残したヤルタ密約

序文・アメリカとソ連の駆け引き

                               堀口尚次

 

 ヤルタ会談は、1945年2月4日から2月11日にかけて、ソビエト連邦のクリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊にあるリヴァディア宮殿で開催された、イギリスソビエト連邦アメリカ合衆国による連合国首脳会談である。第二次世界大戦が終盤に入る中、ソ連対日参戦と国際連合の設立について協議された他、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで、世界大戦後の「ヤルタ体制」と呼ばれる国際レジュームを規定した。

 アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦及び千島列島樺太朝鮮半島台湾などの日本の領土の処遇も決定し、現在も続く北方領土問題の端緒となった。日本に関して、1945年2月8日にアメリカのルーズベルト大統領、ソ連スターリン書記長で秘密会談を行い、その後イギリスのチャーチル首相との間で交わされた秘密協定が、この極東密約である。この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴルモンゴル人民共和国〉の現状を維持すること、樺太〈サハリン〉南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと満州国の港湾と南満州鉄道における、ソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2か月または3か月を経て、ソ連が対日参戦することが取り決められた。

 ドイツが無条件降伏した、1945年5月8日〈ヨーロッパ戦勝記念日〉の約3か月後の8月9日、スターリンはヤルタでの協定に従って、ソ連は日本に宣戦布告し、満州国に侵入、千島列島と樺太を占領した。しかし、ソ連対日戦線の翌日〈1945年8月10日〉に、日本が「ポツダム宣言受諾」を連合国に通告したため、戦争末期〈9月2日の日本の降伏文書調印まで〉の極めて短期間の間に、ソ連の戦果に対して日本の領土を与えるという、結果としてソ連に有利な内容になった。

 1951年「サンフランシスコ平和条約」により、日本は南樺太と千島列島を放棄したが、北方四島は日本固有の領土であり、千島列島には含まれない。但し、当時のソ連は同条約への署名を拒否し、調印していない。そしてロシアは、北方四島は千島列島に含まれるという解釈である。