序文・最期の警鐘
堀口尚次
大手回転寿司チェーンで、悪質な迷惑行為を撮影した動画の投稿・拡散が相次いでいる。馬鹿な事をする輩は昔からいた、だから道徳の退廃は今に始まった事ではない。SNSの普及で馬鹿な行為の動画が拡散され、より多くの不特定多数の人に知れ渡る様になっただけの話し。
ただ、昔ならマナー違反で終わっていた事が、犯罪行為として摘発されるに至ったのだ。あおり運転と同じで、昔から沢山あったが、ドライブレコーダーの普及で世に知れ渡り易くなっただけ。昔と変わったことがあるとすれば、他人に無関心な人間が増えた事だろうか。悪い事をしている他人の子を叱れない大人が増えた。勿論私もその一人だ。大人自身が道徳的な言動をしているのか、自分を振り返ってみても甚だ怪しい。昨今にはびこる、事なかれ主義の代償がもたらした社会現象なのかもしれない。悪い事は『なぜ』してはいけないのか、学校〈教育・道徳〉で学んで終りではなく、社会生活の中で会得して行く他ないのだろうか。
社会人として必要不可欠な「公共のマナー」は規則ではない。違反した者への罰則もない。電車などで身体の不自由な方や年配者に席を譲るというルールはない。鉄道会社は悪までも客へのお願いとして優先席の利用方法を案内している。回転寿司店で他の客の食べ物に触れてはいけないことや、共同使用の調味料などに口を付てはいけないことは、社会常識でありマナーの範疇だ。社会人としての最低限のマナーが守れない者は、社会にいてはいけない。しかし法を犯した者は犯罪者として裁かれるが、昔からマナーを犯した者は、なんのお咎(とが)めもなく蔓延(はびこ)り続けている。昨今はその割合が増えたのだろう。
かつての侠客(きょうかく)はその義侠心から「強きを挫(くじ)き、弱きを助ける」を信条に生きた人たちだった。また、世の中の不正義に対しても身体を張って仁義を貫いた人たちだった。正義や道理の通らぬことが多い現代を、草葉の陰の侠客らはどんな想いで見ているんだろう。
経済発展を遂げ、先進国という名称だけが一人歩きをし、義理人情が廃れてしまった現代とは、いったい何をどこに忘れてきてしまったのだろうか。貧しくても心が豊かだった時代、「ボロは着てても心は錦」と歌えた時代に戻りたい。昨今の事件が、現代の日本人への「最期の警鐘」に思えてならない。