ホリショウのあれこれ文筆庫

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第598話 三本の矢の例え・毛利元就

序文・天下を競望せず

                               堀口尚次

 

 毛利元就は、戦国時代の武将・中国地方(山陰道山陽道)の戦国大名。毛利氏の第12代当主。安芸吉田荘の国人領主毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏。正式な姓名は、大江元就。家紋は一文字三星紋。  

 用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られ、軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を弄して一代のうちに一国人領主から芸備防長雲石の六ケ国を支配する太守へとのし上がった。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられている。

 尼子氏の滅亡後、中国地方の覇者となった元就だったが、自身は「天下を競望(けいぼう)せず」と語り、自分の代での勢力拡大はこれ以上望まない意志を明らかにしていた〈とはいえ、大内氏の支配圏だった北九州進出にはこだわり、晩年まで大友氏と激しい抗争を続けた〉。またそれは息子や孫達の代に至るも同様であり、三男・隆景を通じて輝元の短慮を諌めるようにたびたび言い聞かせ、これが元就の『遺訓』として毛利家に浸透していったという。

 死ぬ間際の元就が、3人の息子〈隆元・元春・隆景〉を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話がある。元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い(もろ)矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたというものである。この逸話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名だが、実際には元就よりも隆元が早世しているなど史実とは食い違う点も多く、弘治3年に元就が書いた直筆書状『三子教訓状』に由来する創作とされる。

 天下を競望しなかった元就であったが、幕末の長州藩は、薩摩藩と組んで倒幕の烽火を挙げたのだ。長州藩一藩では無理なこともでも「薩長土肥」という四矢の矢を束ね、更には朝廷を見方〈岩倉具視〉に付け、天皇をいただいて官軍になるという戦略に打って出たのだ。元就がどう思っているかは知らないが、長州藩の用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きには満足しているのかも知れない。