ホリショウのあれこれ文筆庫

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第600話 桑名藩士として本懐をとげた箱館新選組隊長

序文・桑名藩新選組の関係

                               堀口尚次

 

 常吉は、幕末の桑名藩。後に新選組隊士、頭取改役。通称は弥一左衛門とも。文政9年、桑名藩士の長男として生まれ、後に子供に恵まれなかった伯父の森家を継ぐ。桑名藩では御馬廻、横目、御使番、大目付を歴任し、藩主・松平定(さだ)敬(あき)が京都所司代であった時には公用人筆頭として朝廷や諸藩との外交責任者であった 。

 慶応4年1月に始まった戊辰戦争においては、同年5月の上野戦争に参戦した後、同じく桑名藩士らと共に徹底抗戦派の藩主・松平定敬を護衛して北上し、仙台での戦闘中に新選組に入隊した。その後、蝦夷地へ渡航して箱館戦争に参戦し、明治2年早々に新選組の頭取改役隊長に任命される。

 箱館戦争終結後は藩主・松平定敬を守るために全責任を負って出頭し投獄。その後、刑部省から桑名藩に引き渡され、明治2年11月13日に東京深川の旧藩邸において切腹した。享年44。墓所は東京都江東区霊巌寺三重県桑名市十念寺にあり、十念寺にある墓は昭和41年に桑名市の市指定文化財となっている。なお、墓の正面に刻まれた「森陳明之墓」の文字は松平定敬の書によるものであり。

 辞世の歌は、「なかなかに おしき命に ありなから 君のためには なにいとふべき」「うれしさよ つくす心の あらわれて 君にかわれる 死出の旅立」

※君=藩主・松平定敬のこと。

 投獄されていた常吉は、新政府軍に対して「藩主・松平定敬をはじめ、桑名藩における全ての責任は拙者にござる」と申し出る。賊軍となった諸藩では多くの者が責任逃れに終始していた中、その立派な態度は忠臣の鑑として高く評価された。新政府軍の中には「桑名藩憎し」、ことに「家臣を見捨てて逃げ出した松平定敬を生かしておくべきではない」という声も強くあったが、最終的には「ここは忠義の心映えをこそ尊重すべき」とし、常吉は旧桑名藩邸で罪人〈斬首〉ではなく、武士として誇り高き最期〈切腹〉を申し付けられた。

常吉切腹後、森家はお家断絶となり、常吉の長男である陳義は若月〈若槻〉と改姓。ほかにも子孫は存続しており、女優の鶴田真由の母方〈若月/若槻 姓〉の5代前の先祖に当たる。