ホリショウのあれこれ文筆庫

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第601話 昭和の参謀・瀬島龍三

序文・太平洋戦争の開戦暗号の考案者

                               堀口尚次

 

 瀬島龍三明治44年 - 平成19年は、日本の陸軍軍人、実業家。陸士44期次席・陸大51期首席。位階は従三位。太平洋戦争のほとんどの期間を参謀本部部員〈作戦課〉として務めた。最終階級は中佐。戦後自衛隊からの誘いを断り伊藤忠商事へ嘱託で入社。航空機部、業務本部など経て副社長、会長に就任。退職後は中曽根康弘元首相の顧問など多くの職に就任し、「昭和の参謀」と呼ばれた

 昭和16年12月8日に太平洋戦争が開戦。開戦を意味する暗号「ヒノデハヤマガタ」は、瀬島参謀が考案したものである。開戦後は南東太平洋方面における作戦を担当、昭和20年7月に関東軍参謀に転じるまで同職にあって、前線に出される多くの作戦命令を起案した。

 昭和20年7月1日、関東軍参謀に補され、満州へ赴任。同年8月15日の日本の降伏後の8月19日、ジャリコーウォでソ連軍と停戦交渉を行う。このとき瀬島は軍使として同地を訪れたため、内地に帰還することは可能であったが捕虜となった。この交渉の際、日本人労力提供について密約が交わされたという説が刊行されたが、瀬島は否定している

 その後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留されることとなる。このとき本来捕虜としての労働の義務のない将校であるにもかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。瀬島は特別の技術もなく何回か肺炎を患って体が衰弱していたので、外での労働は無理と判断され、班長の配慮で左官の仕事が宛がわれた。後にこのときのことを諧謔(かいぎゃく)〈シャレ〉として「佐官〈自分の階級が中佐だったことから〉が左官になった」と述懐している。

 シベリア抑留について瀬島は「日本の軍人や民間人の帰国を規定したポツダム宣言違反であり、日ソ中立条約を破っての対日参戦とともに、スターリンの犯罪であった」と述べている。また、日独伊三国同盟の締結についても、「断じて実施すべきではなかった」と述懐している。

 因みに瀬島は、晩年の伊藤忠商事では、帝国陸軍参謀本部の組織をモデルにした、直属の部下を率いていた。これは「瀬島機関」と呼ばれていた が、瀬島自身は、マスコミの造語であるとしている。