序文・良妻賢母
堀口尚次
見性院(けんしょういん)は、戦国時代から江戸時代にかけての女性で、土佐藩初代藩主山内一豊の正室である。本名は「千代」とも「まつ」ともいわれるが、定かではない。夫に馬を買わせるために大金を差し出した話や、笠の緒文などの様々な逸話で知られ、良妻賢母の見本とされる。正式な法号は見性院殿且潙宗紹劉大姉。
笠の緒文(おぶみ)は、慶長5年、関ケ原の戦い前の会津征伐に参戦していた山内一豊に、妻の見性院が大坂城から届いた文箱と、自分で書いた手紙2通を使いに持たせ、自筆の手紙のうち1通をこより状にして使者の笠の紐にねじ込んで届けさせたものである。見性院の機転を物語る逸話で、この時の手紙、ひいては文箱の文を未開封のまま徳川家康に届けたことで、家康の一豊への覚えがめでたくなり、その後の小山評定と合わせて、後の土佐20万石への加増につながったともいわれる。笠の緒の文、笠の緒の密書とも。
慶長5年7月、大坂の石田三成は、会津征伐で遠征中の徳川家康に与する大名の妻子を人質に取り、家康方の動きを制しようとしていた。そんな折、大坂城より見性院の元へ書状が届いていた。増田長盛、長束正家の連署があるこの書状は、石田三成への味方を促す書状であった。一豊に届けよという使者の言葉通り、見性院は夫にその書状を届けることにするが、それとは別に2通の手紙をしたため、1通を届けられた未開封の書状と共に文箱に収め、もう1通を観世よりにして、使者の田中孫作の笠の緒により込んだ。 孫作は一路、下野国に陣を張る一豊の元へ向かったが、途中追剥(おいはぎ)に遭い、文箱と笠だけは何とか持っていたものの、衣服と大小を盗られた。そこで孫作は他の者の衣服と刀と脇差を奪って、そのまま旅を続け、美濃路では鮨屋(すしや)の床下で二昼夜を過ごし、すし桶を盗んで飢えをしのいで、下総国緒川の一豊の陣に到着した。慶長5年7月24日のことであった。一豊はまず笠の緒の文を読んだ後、近侍の野々村迅政に焼かせ、文箱は封をしたまま、小山に陣を貼る家康に届けさせた。家康は大坂城内の様子を知りえたこと、同封されていた見性院の、家康に忠義を尽くすように促す内容の手紙に感動した。
関ヶ原の戦いの後に、家康は嫡子秀忠に「山内対馬守の忠義は木の幹、他の諸将は木の葉のようなもの」と語ったことから見ると、一豊の言動が家康に与えた影響は大きかったようである。