ホリショウのあれこれ文筆庫

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第633話 室町幕府最後の将軍・足利義昭

序文・信長との関係

                               堀口尚次

 

 足利義昭(よしあき)は、室町幕府の第15代〈最後の〉征夷大将軍織田信長に擁(よう)されて上洛し、第15代将軍に就任した。その後、信長と対立し、武田信玄朝倉義景浅井長政らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて京都から追われ、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。しかし、義昭は京都追放後も将軍として活動を続けており、河内国和泉国紀伊国に滞在したのち、備後国へ下向した。そして、毛利輝元の庇護を受け、亡命政権鞆(とも)幕府を樹立し、信長に対抗した。信長が本能寺の変によって横死したのち、豊臣政権が確立すると帰京し、豊臣秀吉から山城国槙島に1万石の所領を認められた。そして、将軍を辞して出家し、昌山道休(しょうざんどうきゅう)と号した。義昭は前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であり、また秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)に加えられるなど、貴人として遇された余生を送った。

 義昭と信長の関係悪化に関して、殿中御掟〈織田信長室町幕府将軍・足利義昭に承認させた掟〉を発端とする見方がある。この殿中御掟については近年、信長が単純に将軍権力を制約しようとしたのではなく、ほとんどの条文が室町幕府の規範や先例に出典が求められるもので、信長が幕府法や先例を吟味した上で幕府再興の理念を示したものだとする説も出されている。また、5箇条の承認とほぼ同じくして、信長の書礼札が関東管領である上杉謙信とほぼ同格になっており、信長が「准官領」〈管領管領代に准じるものと位置付けられた幕府官職〉の就任を受け入れた代わりに、信長の方も義昭に求めた要望の結果が記されたもので、信長を幕府の秩序体制に組み込んだという意味では義昭の権力基盤の安定化につながったとする見解もある。

 義昭期の幕府機構を研究していく中で、義昭が信長の傀儡とはいえず、室町幕府の組織が有効に機能しており、むしろ義昭個人の将軍権力の専制化や恣意的な政治判断による問題が浮上し始めていたとする指摘もある室町幕府において、将軍専制の確立と大名権力の抑制を意図する将軍とこれを抑えようとする管領ら有力大名の対立はこれまでもたびたび発生しており、義昭と信長に限定された話ではない。