ホリショウのあれこれ文筆庫

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第639話 舞い鶴にぶどうの家紋

序文・尾張藩主と平島村の繋がり

                               堀口尚次

 

 尾張国知多郡平島村〈愛知県東海市荒尾町〉の庄屋・久米右衛門宅に、尾張の殿様〈徳川御三家筆頭の尾張藩藩主〉が立ち寄ることになった。尾張の殿様の狩猟好きは天下に知られており、隣村の加木屋村の狩場はその御縁から「御雉子山(おきじやま)〈鷹で雉を仕留める〉」と名づけられている。

 殿様は、久米右衛門の鷹狩好きを聞きつけて、立ち寄ったのだ。こうして殿様と久米右衛門がそろって狩場に出かけ、二人の自慢の鷹は、鶴の鳴き声の方角へ天高く舞い上がると、久米右衛門の鷹が一足先に鶴をつかんで帰ってきた。殿様は、敗れた悔しさを忘れて、久米右衛門の鷹を手を打って誉め称(そや)した。そして殿様は「よくぞここまで仕込んだものだ。今日は、予の負けじゃ。褒美はなんなりととらせるぞ。遠慮なく申してみよ。」と言った。久米右衛門は「ありがたき幸せに存じます。特に欲しい物とてございませんが、私めに名字と家紋が頂きとう存じます。」と答えた。そこで、早速殿様は、久米右衛門に深谷(ふかや)」の姓と、舞い鶴にぶどうの家紋を与えたといわれている。

 平島村出身の儒学者・細井平洲先生〈米沢藩主・上杉鷹山公の師匠〉が、遠く長崎まで勉強に行った時、旅費や学費の援助をしてくれたのも、この久米右衛門だということだ。

 ※この話しは、東海市教育委員会出版の「東海市の民話」から一部抜粋させて頂いた。因みに、現在の荒尾町平島地区には「深谷」姓が多く、筆者の同級生にも何人かいるので一応確認してみたが、この紋章の家はいなかった。また御雉子山は、愛知県東海市加木屋町にある山で、標高59.2mで東海市最高峰とされる。この地には昔キジなどの野鳥が多く、尾張藩の第2代藩主・徳川光友が鷹狩を行ったことから、この名前が付いたとされる。