ホリショウのあれこれ文筆庫

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第646話 清正公さん

序文・熊本を命名

                               堀口尚次

 

 加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。

通称は虎之助。熊本などでは現代でも、清正公(せいしょうこう)さんと呼ばれて親しまれている〈清正公信仰〉。これは、ひとえに新田開発や治水工事で実績を上げたことによるところが大きい。

 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ケ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。文禄の役の際の京城攻めでは、出世を競う小西行長と一番乗りを争った。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ケ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年従三位を追贈されている。

 熊本県〈旧熊本藩〉においては、「清正公さん」として現在も種々の史跡や祭りなどに取りあげられているが、当時の肥後人の清正への崇敬は強かった。これはほとんどの大名が単に統治しただけであったのとは対照的に、農業政策で実績を上げたことによる。

 熱心な日蓮宗の信徒であり、領内に本妙寺をはじめとする日蓮宗の寺を数多く創設した。そのほか、いわゆる「三振法〈清正当時の呼称ではない〉」を取り入れたことで知られる。これは武士のみが対象であったが、軽微な罪や式典で粗相を3回起こすと切腹を申し付けられるものであった。

 清正が少年時代、上河原〈愛知県津島市上河原〉の叔父の家にいた時、盗賊が押し入った。叔父夫婦は縛られたが、清正は鬼の面を被ってつづらに隠れた。重みのあるつづらを財宝だと勘違いした盗賊たちは持ち去って松原に来たところで開けると、清正が飛び出してきたため鬼だと思い込み逃げ去った。現在、叔父の屋敷跡と伝えられる地に「清正公社」が建てられている。

 清正公信仰は、戦国武将で後に熊本藩の初代藩主となった加藤清正の没後、彼を祀って所願成就を願う信仰。当初は清正が崇敬・保護した法華宗日蓮宗〉が中心となっていたが、明治維新神仏分離の際に加藤神社が創建されたことにより、神道による信仰も行われた。