ホリショウのあれこれ文筆庫

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第647話 今川氏真の選んだ道

序文・二代目の苦悩

                               堀口尚次

 

 今川氏真は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主。

 父・今川義元桶狭間の戦い織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は同盟者でもあり妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家から離反した徳川家康と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった。氏真以後の今川家の子孫は徳川家に高家(こうけ)〈朝廷接待役〉待遇で迎えられ、江戸幕府で代々の将軍に仕えて存続した。

 松平定信が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治(なお)りたりとても、油断するは東山義政〈室町幕府将軍・足利義政〉の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、和歌蹴鞠といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。19世紀前半に編集された『徳川実記』は、今川家の凋落(ちょうらく)について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐(あだ)とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されている。

 江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』品第十一では、「我が国を亡し我が家を破る大将」の一種として「鈍過たる大将〈馬嫁なる大将〉」が挙げられており、氏真が今川家を滅ぼした顛末が述べられている。氏真は心は剛勇であったと描かれているが、譜代の賢臣を重んじず、三浦義(よし)鎮(ざね)のような「佞人(ねいじん)〈心がよこしまで人にへつらう人〉」を重用して失政を行ったという点に重点を置いて

批判されている。

 氏真の逸話として、『続武家閑談』は、天正10年に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに本能寺の変が発生したという。