ホリショウのあれこれ文筆庫

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第649話 女城主・椿姫こと「お田鶴の方」

序文・椿姫観音大菩薩

                               堀口尚次

 

 お田鶴(たづ)の方は、戦国時代の女性。飯尾連龍(いのおつらたつ)の妻。椿姫とも呼ばれる。父は鵜殿長持、母は今川氏親の娘で今川義元の妹または義妹である。母方の祖父は今川氏親、母方の祖母は「尼御台(あまみだい)」といわれた寿桂尼(じゅけいに)で、今川義元は伯父、北条氏康正室である瑞渓院(ずいけいいん)は伯母、徳川家康の側室西郡局(にしのこおりのつぼね)は実の姉妹にあたるという説がある。家康の正室築山殿とは今川氏の同族で母同士が義理の姉妹にあたる

 夫の死後、夫の代わりに城を守り城兵や侍女とともに徳川家康と戦い討死した。この逸話から吉田松陰の雑記である『辛亥歳雜抄』では烈婦(れっぷ)の一人として扱われ、明治や大正時代の本である『東海道五十三次:附・名数雑談』では女武者、『皇朝金鑑』では烈女の一人として称されている。

 『家康の愉快な伝説』では、永禄11年12月、これまで岡崎城にいた家康は、信長との盟約によって、家康は三州から中山峠を経て遠江に入り、後藤太郎左衛門と松下与右衛門の両人を曳馬城に派遣した。このとき、曳馬城の城主である連龍が今川氏に謀殺されたため、その妻のお田鶴の方が城を守っていた。

 家康は曳馬(ひくま)城〈後の浜松城〉を明け渡すなら一族共々面倒を見ると言ったがお田鶴の方が拒否したため、交渉は不調に終わり、徳川の兵が城を攻めた。この時、気丈夫なお田鶴の方は、緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)に同色の兜を被り、長刀を振って城門に立つと、続いて赤い襷(たすき)に白の鉢巻をし、薙刀(なぎなた)を持った侍女18人と勇んだ意気軒昂(けんこう)な数百の城兵達とともに、押しよせる徳川の兵に向って打って出て2、3日は敵を追い払ったが、12月24日城兵は討死し、お田鶴の方も18人の侍女達とともに枕を並べて戦死した。

 その後、お田鶴の方含む戦死者の遺骸を埋め、いっぱいに椿の木を植えた塚を作り、その場所は「椿塚」または「椿屋敷」といった。それから何年か経った後に椿塚には一面に赤い椿の花が咲いた。椿塚の跡と思われる元浜町にお田鶴の方を祀った「椿姫観音大菩薩」の小祠があり、徳川家を憚(はばか)ってか祠は大きくはしなかった。薄命の佳人(かじん)〈美しい女の人〉への惻隠(そくいん)〈かわいそうに思う〉の情か、節操高く生きた憧憬(しょうけい)〈あこがれ〉の念か、今も昔も変わらずこの辺りの女性の参拝客が多いという。