ホリショウのあれこれ文筆庫

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第652話 琴弾松

序文・愛知県東海市の民話より

                               堀口尚次

 

 『むかし、横須賀の大教院境内に、四方に枝を張った松の木の大木がありました。寺には、都をのがれてこの地にかくれすむ、白羽監物という侍がいました。毎日、伊勢の海を渡ってくる風が松の木にふれて、かすかにかなでる音に合わせて笛を吹くのをただ一つの楽しみにして暮らしておりました。「ピーヒャララララー、ヒャラトロロロロー。」笛の音は、松風に乗って静かに流れていきます。
 ある月の美しい晩のことです。監物がいつものように笛を吹いていますと、どこからともなくかすかに琴の音が聞こえてきて、いつのまにか笛の音とひとつになって、美しいしらべをかなでました。監物が夢から冷めたように曲を吹き終わりますと、琴の音もはたとやみました。「こんな田舎で、これだけの琴の弾き手がいようとは・・・・・・。」監物は、このように美しく琴をひく人に一目会いたいと思いました。しかし、監物が笛を吹くと、きまって伴奏してくれる琴の弾き手は、決して姿を見せませんでした。「これだけの琴の上手、きっと名のあるお方のお姫さまにちがいない・・・・・・。」監物が人にたのんでいろいろ調べてもらいますと、寺の近くの御殿浜と呼ばれる浜辺に、立派なお屋敷があり、どこかの国のお姫さまが静養に来ておられたことがあるということでした。監物は、その話を聞いた晩も、庭に出て松の木の下で笛を取り出すと、そっとくちびるにあてました。澄みきった美しい笛の音が、松風に乗って静かに流れ出しました。「ピュー、ヒュルル、ヒュルル、ピュル、ピュルル・・・・・・。」
 すると、いつの間にか、かすかな琴の音が起こって、それは次第に高くなり、笛の音にとけ合うようにひびき合うのでした。笛と琴の音は、あるいは月の光りにとどくかのように高く、あるいは伊勢の海の波をはうように低く、どこまでも流れていきました。笛を吹き終わった監物は、思いきったように浜辺の御殿をたずねました。「ごめんくだされ。お頼み申す。」中からお女中が現れました。「ここに琴をお弾きなされる姫さまがおいでだとうかがったが・・・・・・。」
「姫さまは、先日、病気でお亡くなりになりましたが・・・・・・。」お女中は、不思議そうに監物の顔を見上げながら答えました。「なに、亡くなったと・・・・・・。」
「はい、それは琴のお好きな方で、お亡くなりになる間ぎわまで琴を離しませんでした。わたくしどもは、琴姫さまとお呼び申し上げていたほどです。」「・・・・・・」折りから、一陣の風が吹いてきて、松のこずえを鳴らしました。ざわざわという松風の音は、やがて美しい琴の音にかわりました。監物は、ふところから笛を取り出して、静かに息を吹き込みました。

 琴の音と笛の音の合奏は、それからもしばしば聞かれたということです。人々は、大教院の境内広く枝を張る松の木を「琴弾松」と呼ぶようになりました。
明和二年、いまから二百年以上も昔、この近くに住む俳人の坂楓京という人は、この松の下に「琴弾松」の碑を建て、色かへぬ風のしらべや松みどりの句をきざみました。松は、昭和四十八年に枯れましたが、この碑は、今でも大教院の境内に建っています。』

 

以上「東海市の民話」から抜粋しましたが、過日私は、東海市横須賀町の大教院の境内にある「琴弾松の碑」を確認してきました。枯れてしまった松は、大教院近くの愛宕神社の境内に、二代目の松として存在していましたので確認してきました。

 立札によると『室町時代の延徳二年足利義政の臣、白羽監物が本町に遁世(とんせい)し一本の松〈現大教院〉をこよなく愛した。この樹下に庵を結び、月雲を友として常に琴を弾いていた。いつしか人々は琴弾の松というようになったという。〈横須賀町史〉 二代目のこの松は、昭和三十四年〈伊勢湾台風の年〉親木〈琴弾松〉の根元の実生を大教院主佐々氏が小鉢に取り育て、更に数年後、大府市横根在住山下定記殿の好意の手で育てられ、八十センチ程に成長した。その幼木を平松才一・松下正八・中川清作の三氏の発案で大同不動産緑化部に預けられました。以来数年の歳月を経て皆々様の好意の手により、この神社境内に定植されました。御助力を戴きました皆々様の御芳志を深く感謝申し上げ、ここに記録し、更に神の恵みを受けて大樹に成長する事を祈る哉切なり。〈阿知波安兵衛記録す 銘板寄進 大同特殊鋼(株)知多工場〉』とありました。