序文・伝説だらけ
堀口尚次
藤原景清(かげきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。藤原忠清の子。
平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平(たいら)姓で平景清とも呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏〈伊藤氏〉で、伊藤景清ともいう。通称、上総七郎〈上総介忠清の七男であるため〉。信濃守、兵衛尉。「悪七兵衛(あくしちべえ)」の異名を持つほど勇猛であった。
平安末期における治承・寿永の乱〈源平合戦〉において活躍した。『平家物語』巻十一「弓流」において、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引きちぎったという「錣引き」が特に有名である。壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、一説には預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれる。
「悪七兵衛」の「悪」は悪人という意味ではなく、「悪党」と同様に勇猛さを指すものとされるが、壇ノ浦の敗戦後に自分を匿った叔父の大日房能忍を疑心暗鬼にかられて殺害してしまったためにそう呼ばれるようになったとの伝承もある。ただし近年は能忍の死因は病死または事故死とする説が有力。
涙池〈東淀川区小松公園〉は、「景清が好きなそばを打て」〈但し、当時打ち蕎麦は存在しない〉という大日坊の言葉を「景清を討て」と聞き間違えて大日坊を斬ってしまい、その血のついた刀を泣きながら洗った池である。
実在したとはいえ生涯に謎の多い人物であるため、いわゆる平家の落人(おちゅうど)として扱われる事は少ないが、各地に様々な伝説が残されている。このためか各種の創作において主人公としてよく取り上げられている。
筆者の地元大府市吉田町には「景清神社」や「芦沢の井〈平景清屋敷跡〉」なる遺跡があり、大府市遺跡案内の立札には『平家滅亡後に、悪七兵衛景清が隠れ住んだ屋敷跡と伝えられています。「悪七兵衛景清」よは、「悪七兵衛」と呼ばれた藤原秀郷(ひでさと)の子孫・藤原景清のことで、平家に仕えて戦い、平家の都落ちにも付き従ったために「平景清」と呼ばれました。「悪七兵衛」の「悪」とは、強者(つわもの)という意味です。』とある。更に、近くの生目八幡宮には「史蹟・景清公墓所」の石碑もある。