序文・主君を殺された責任を負い切腹
堀口尚次
加賀井重望(かがのいしげもち)〈永禄4年 -慶長5年〉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。美濃国加賀野井城主。別名に重茂、秀重、秀望。永禄4年、加賀井重宗の子として生まれる。幼名は弥八郎。はじめ織田信長に仕え、その死後は次男の織田信雄に仕えた。
天正12年 の小牧・長久手の戦いでは父と共に織田方として戦い武功を挙げた。しかし加賀野井城は豊臣軍によって落とされ、父は豊臣秀吉に仕えることを潔しとせずに隠棲したが、重望は秀吉に使番(つかいばん)〈伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職〉として召しだされ、1万石を与えられた。慶長5年の関ケ原の戦い直前、三河国池鯉鮒(ちりゅう)〈現・愛知県知立(ちりゅう)市〉において水野忠重、堀尾吉春らと宴席を共にしていたとき、些細なことから口論となって忠重を殺害し、吉晴を負傷させたが、自らも吉晴によって殺害された。享年40。
愛知県知立市の宝蔵寺には「追腹塚」と「加賀野井弥八郎の墓」がある。知立市教育委員会の立札によると
『「改正三河後風土記」などによれば、慶長五年関ケ原合戦の直前、石田三成より徳川家康暗殺の命を受けた美濃国加賀野井城主加賀野井弥八郎重望〈石田方〉は、道中出会った浜松城主堀尾吉春〈徳川方〉と同道し、知立で刈谷城主水野忠重〈徳川方〉と酒宴をもった。そのさなか加賀野井が水野を斬り殺したが、堀尾に殺された。水野の付き人二人は主君が殺された責任を負い切腹した。この二人を葬ったのが追腹塚である。塚はもと宝町石亀にあったが、ここに移された。』
『加賀野井の遺骸は本寺に葬られ、岡崎城主田中吉政が墓を建立した。墓は全高四十五cmの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、現在の相輪は、のちに加えられたものである。』とある。
私は過日、知立神社へ国の重要文化財に指定されている多宝塔を観に行き、ついでに近辺の神社仏閣を参拝して回っている時に、偶然にも宝蔵寺でこの塚と墓に出くわしている。そして数年後に親父と兄貴と知立三弘法を巡拝している時に、またしても偶然にも宝蔵寺に立ち寄って追腹塚と対面することとなった。私はこれも何かの縁と感じ、今回筆を執ることとした。