序文・幕末維新の混乱痕跡
堀口尚次
菱田重禧(しげよし)〈天保7年-明治28年〉は、幕末の大垣藩士・漢詩人、明治期の官僚・裁判官。青森県権令。字・士端、通称・文蔵、号・海鴎(かいおう)。
美濃国安八郡久瀬川村〈現岐阜県大垣市〉で、大垣藩侍講・菱田清次の六男として生まれる。年少から漢詩を好んだ。嘉永6年、江戸に上り安積艮斎(あさかごんさい)〈朱子学者〉に入門。一時帰郷した後、安政5年に再び江戸に上り艮斎塾に再入門した。安政6年3月頃に退塾して同年5または6月頃に帰郷した。
帰郷後、小原鉄心の抜擢で藩校の教官、さらに評定役兼侍講に就任。慶応2年3月、江戸詰となった小原鉄心に従い江戸に上る。同年6月4日、第二次長州征討の対応のため帰郷する小原に従い江戸を出発。慶応3年9月末、藩兵を率いて上洛する小原に随行した。
慶応4年1月3日鳥羽・伏見の戦いが始まり、小原鉄心の婿養子小原兵部が隊長であった大垣藩兵が旧幕府方として参戦した。このため、鉄心は桐山純孝と菱田を遣わし、兵部に対して官軍に対して発砲しないよう説かせたが、既に戦端が開かれ撤退は不可能であったため兵部は状況に応じて進退すると返答し、菱田たちは鉄心に報告した。同月6日、鉄心は再度、菱田を兵部へ遣わしたが、途中で長州藩士・増野精亮に捕われ伏見の陣営に連行された。菱田は長州藩伍長たちと議論を行うが、激昂した長州藩士たちが一緒に捕われていた会津藩士たちと共に菱田を斬首しようとした。6名が斬首され菱田の番となり、海鷗は落ち着いた様子で一編の辞世の漢詩「屠腹(とふく)〈切腹〉の詩」を詠じ、それを読んだ隊長・石部誠中(せいちゅう)〈長州藩士〉が菱田の態度に感服し、救おうと動き斬首を免れた。大垣藩は、藩兵が官軍に発砲し賊軍となったが、鉄心は同月9日に菱田、桐山らを伴い大垣へ向かい、帰藩して藩論を勤皇に転換させた。
※「屠腹の詩」現代語訳
主君や父母の恩に報いようと思って、熱心に学んできた。
このままでは三十年餘(あま)り灯火のもとに学んできた事も空しくなってしまう。
平然として死んでみせるのは、まさしく今夜だが、
ただただ残念なのは、この真心がまだ天子様に達していいないことだ。