ホリショウのあれこれ文筆庫

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第666話 三助の由来

序文・スーパー三助?

                               堀口尚次

 

 三助(さんすけ)とは、江戸時代中頃から現代における日本の銭湯で働いていた、性労働。釜焚きや下足番、また男湯・女湯で入浴客の背中を流すなど、銭湯における直接間接のサービスに従事した。

 三助志望者は街の銭湯に雇用されると、まず見習いとなり、昼間は大八車を引いて普請場や家屋解体現場に行き、釜焚きの薪になる廃材や古材木を貰ってくる「外回り」を務める。忙しい夕方になると、入り口で客が脱いだ履物の出し入れや、預かり管理する下足番を勤める。見習い2~3年目から釜焚きに参加し、浴客の身体を洗う「流し」に出るようになると三助と名乗ることが可能となり、客からもそのように呼ばれた。銭湯入場時の料金の他に、三助に対し「流し代」の別料金を支払った浴客に対し、予め用意した「留桶(とめおけ)」という小判型の専用桶を持ち、一般にはふんどし姿、場合によっては半股引(はんだこ)を穿き、浴室で背中などの身体を洗う接客に従事した。

 昭和初期においても一人前の三助と認められるには約10年は働くことが必要であり、長期間勤めた者は雇用主の代わりに銭湯の番台を勤めることもあった。三助となった男性は資金を蓄えた後は、銭湯経営者として独立することが多かった。

 三助の「三」は炊爨(すいさん)〈飯を炊くこと〉の「さん」の意味で、炊爨やその他雑用を勤めたことによる。現代のように銭湯の浴室で浴客の垢すりや身体を洗う接客、その他雑用を行った男性被用者を一般に指すようになるのは享保、または化政期〈江戸時代末期〉以降である。それ以前の江戸時代は、雑用に従事し身分の低い男性奉公人である下男や小者の通称が三助であった。

 このほか、『公衆浴場史』〈全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会、1972年〉に紹介されている説として、江戸時代の銭湯で働き者として人気だった、越後国出身の兄弟3人〈仁之助、三助、六之助〉が由来という伝承もある。

 また異説として奈良時代天然痘が蔓延した時〈ハンセン病という説もあり〉、聖武天皇の后(きさき)であった光明皇后は浴室〈現在のサウナに近い〉を建設し、自ら患者の治療に献身した。この折に三人の典侍(ないしのすけ)が皇后を助けた。彼らは「三(さん)典(すけ)」と呼ばれ、これが後の「三助」の語の由来になったともいう。