ホリショウのあれこれ文筆庫

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第668話 傷痍軍人の境遇

序文・祖国に翻弄された人々

                               堀口尚次

 

 傷痍(しょうい)軍人は戦争において傷痍を負った軍人・軍属。軍人恩給法によって増加恩給・傷病年金・傷病賜金の受給権有資格者をさす。日本では、昭和6年11月までは廃兵と呼称された。

 日本においても日露戦争後に大量の傷痍軍人が出現して大きな社会問題となり、国家により救済支援制度が整備された。また、第二次世界大戦において多くの軍人が戦死し、あるいは傷痍軍人となった。戦時下においては戦傷もまた名誉の負傷とされ、在世中の軍人傷痍記章を着けることを許され、社会的に優遇を受けることもあった。

 ポツダム宣言による第二次世界大戦の停戦後、連合国の占領下で軍事援護の停止による恩給の打ち切りなど、戦傷を負った人々とその家族の生活は困窮と苦難の淵にあった。サンフランシスコ講和条約発効による主権回復のあと、軍人恩給の復活とともに傷病者への支援に改善をみた。戦後、厚生省のもとでその補償がなされるようになり、軍人恩給等の対象ともなった。財団法人日本傷痍軍人会を中心として、各地に傷痍軍人会が設立され、傷痍軍人の生活の援護と親睦福祉増進を図る事業が展開されている。

 傷痍軍人と呼ばれた戦傷兵の収容と看護は、法の成立・改正により次のような変遷を経ている。日露戦争は開戦2年で大量の傷病兵が本土へ帰還したため、明治39年4月の廃兵院法成立後、廃兵院が各地に設けられた。昭和9年3月の傷兵院法によって廃兵院は傷兵院と改称され、昭和13年厚生省が設けられ、傷兵院は厚生省外局の傷兵保護員に所属とした。傷、痍ともにキズ〈傷〉を意味するが、大きな傷として腕や脚を失った傷痍軍人も多くいた。軽傷の者は復員後古郷に晴れて戻ったが、体の一部を戦禍で失ったこれら元軍人は仕事に就ける訳でもなく、その生涯の多くを国立療養所やその後の国立病院で過ごすこととなった。日々の生活はそこで送っていたものの、都会の人通りが多い駅前や、地元の祭りや縁日にはその場に来て、露天商が並ぶ通りなどの通行人から金銭貰い、小遣いとした。昭和25年頃になると、傷痍軍人の街頭募金は各都道府県の条例で禁止されるようになった。

 私は昭和40年代の幼少の頃、神社の境内で物乞いをしている傷痍軍人を見た。