ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第672話 年季奉公と身請

序文・女性の悲しい歴史

                               堀口尚次

 

 年季(ねんき)奉公は、雇用者との契約の下に一定期間働く雇用制度の一形態である。多くは住み込みで食糧や日用品は支給されたが、給与は支払われないか、支払われたとしても極く僅かなものだった。かつては世界の多くの国で合法的と考えられて行われていた制度だったが、近現代になると児童や女性に対する虐待や人権侵害などの理由で廃止または禁止され、今日少なくとも先進工業国ではこうした形態の雇用制度が合法的に行われることはなくなっている。

 身請(みうけ)は、芸娼妓(げいしょうぎ)〈娼婦〉などの身の代金前借り金を支払い、約束の年季があけるまえに、稼業をやめさせることである。身請ののち、自分の妻、また妾(めかけ)にすることもある。落籍(らくせき)ともいう。

 江戸時代の遊女の身請は、ふつうまず客からだれだれを身請すると楼主(ろうしゅ)に相談し、楼主は親元に異存のないことをたしかめたうえ、客に抱女(ほうじょ)の身代金と本人の借金とを支払わせ、身代金を償わせる。

 元禄3年の三浦屋初菊の身請証文、寛保元年の十代目高尾の身請証文もだいたいおなじで、身請証文には遊女の手切れ金にまで言及されていた。 遊女には、女衒(ぜげん)〈女性を遊郭など売春労働に斡旋することを業とした仲介業者〉付き、女衒なしの区別があり、女衒なしの身請は容易であったが、女衒付きはあとが面倒であるとされ、身請相談とともに金銭で女衒の手を離れさせる手順をふんだ。太夫(たゆう)〈最高位の遊女〉の身請は、とうぜん客は大尽(だいじん) 〈遊里(ゆうり)で多くの金を使って豪遊する客〉であるから、楼内はもちろん、芸妓、幇間(ほうかん)〈宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり自ら芸を見せさらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業〉にまで赤飯、料理、祝儀の包金(つつみがね)をあたえ、朋輩(ほうばい)の妓女(ぎじょ)には昼夜、総仕舞の玉を付け、身請の遊女は朋輩女郎(じょろう)、鴇婆(ほうば)〈やり手の年配女性〉、妓夫(ぎゅう)〈遊女屋の男子使用人〉、若者におくられ、客の待つ引手茶屋に行き、ここで宴を張ったのち、大門口に用意された迎えの駕籠に乗り、おめでとう、ごきげんよう、の別れのことばをうけて廓を出た。 赤飯と鰹節をおくられた引手茶屋の一同もここまで来て送る派手なものであった。のちには貸借元簿の金額をさだめとして、その妓女が借金を支払い、祝儀の名目で若干金銭を抱主に贈るのがふつうであった。