ホリショウのあれこれ文筆庫

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第675話 藩主と対立した御付家老嫡男

序文・血のつながらない家康の孫

                               堀口尚次

 

 竹腰成方(しげかた)は、江戸時代前期の美濃国今尾領主・竹腰家の一門。官位は従五位下・出雲守。槍の達人。初代尾張藩主・徳川義直徳川家康の九男〉の甥。

 尾張藩御付(おつけ)家老〈幕府が指定する家老〉美濃国今尾領主・竹腰正信〈徳川家康の側室・お亀の方の連れ子で、初代尾張藩主・徳川義直の異父兄〉の長男として駿府にて誕生した。母は大久保忠隣の養女〈孫〉の春。お七夜徳川家康に抱かれ源太郎と命名され、脇差と羽織を賜る。寛文8年元服時、大膳正好と名乗る。以後、信良〈叙任時〉、成方、可謙、三信(みつのぶ)と改名する。

 竹腰家の嫡男であり、寛永10年、知行地4000石を賜り、常滑〈現愛知県常滑市に住する。翌寛永11年、従五位下・出雲守に叙任され、信良と改名する。寛永14年、江戸に出て翌年名古屋に帰る。帰ったのち、前年に起こった味鋺現在の名古屋市北区の水争いにおける水奉行に対する処断で藩主徳川義直と対立し、不仲となり登城する機会が減る。寛永16年6月には病と称し、常滑村庄屋の衣川八兵衛宅に引き籠った

 尚、この衣川八兵衛は、徳川家康本能寺の変の後、伊賀越えから伊勢湾を渡り知多半島常滑へ上陸した際に、家康に便宜を図ったという伝説も残る。

 正保2年、父が没すると家督は弟の正晴に譲り、高野山で出家、霜閑と号する。翌正保3年、藩主より合力米2000俵と屋敷を賜り、旧領のうち200石を本家に返還している。正保4年、瀬木(せぎ)常滑に新居を建築し移る。慶安元年、藩主より三徳備える人物として評され、三信の名を賜る。寛文6年、渥美半島・田原湾岸に石塚新田を開拓する。法名は龍雲寺殿大安三信嗣法老居士。墓所は榎戸村〈愛知県常滑市榎戸〉の龍雲寺。

 龍雲寺の近くの常滑市本町の常滑西小学校敷地の片隅に「瀬木屋敷跡〈竹腰三信屋敷〉」を示す「竹腰三信公遺跡おねまの石碑」がある。「おねま」の意味合いは筆者の解釈では、「寝間(ねま)=寝泊りしている屋敷」に丁寧語の「お」を付けた「おねま」ではないかと考える。

 竹腰三信は、祖父である徳川家康と同じ衣川八兵衛を頼り、伯父にあたる徳川義直に抵抗した訳だが、三信には家康の血は入っていないことになる。