ホリショウのあれこれ文筆庫

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第693話 桶狭間の戦いの落武者伝説②

序文・阿久比町に残る岡戸姓

                               堀口尚次

 

 筆者の地元・愛知県知多半島東浦町の縣(あがた)神社の立札に以下の説明書きがある。『社宝の氏神面である「翁の面」は、永禄3年桶狭間の合戦後、福住村の住人となった今川方の家臣岡戸祢宜左衛門(ねぎざえもん)が所有していたと伝えられている。この地方は旱魃(かんばつ)の年が多かったので、この氏神面はその時々に雨乞いの神事に使用され、恵みの雨をもたらしたということである。』

 また、縣神社のすぐ近くにある曹洞宗の興昌寺がある。この寺は、永禄3年の桶狭間の戦で、織田信長今川義元を奇襲して討ったとき、今川勢の部下岡戸祢宜左衛門が福住に住み知多郡東浦町緒川にある曹洞宗の乾坤院四世亨隠慶泉(こういんけいせん)大和尚を迎えて開山したといわれている。

 興昌寺の門前には、福住出身者の岡戸半蔵(おかどはんぞう)の像が行者堂に祀られていたが、現在は老朽化の為お堂は解体され、弘法堂に祀られている。岡戸半蔵は、江戸時代後期の人物。尾張国知多郡福住村〈愛知県知多郡阿久比町〉に生まれる。壮年期に妻子に相次いで先立たれ、発心して諸国遍歴の旅に出る。文政2年、妙楽寺住職亮山阿闍梨に出会い、霊場開創の大願に感銘。武田安兵衛とともに亮山阿闍梨に協力し、知多四国霊場を開創した人物である

 私は、過日「知多四国霊場遍路」で興昌寺を訪れており、岡戸半蔵の像も確認していたが、桶狭間の戦いの今川方の落武者・岡戸祢宜左衛門の事はしらなかった。日を改めて、興昌寺を訪ね、たまたまいらしたお寺の奥様に、岡戸祢宜左衛門と岡戸半蔵の関係について質問したところ、岡戸祢宜左衛門の子孫の方は近所に存命のようだが、岡戸半蔵とは無縁ではないかとのことだった。阿久比町のこの地域〈旧福住村〉には「岡戸」という名字の家が多くあるそうだ。

 私は今後の知多四国霊場遍路では、岡戸半蔵に想いを馳せると共に、知多半島に住み着いた、今川方の落武者など、歴史に埋もれていった人たちの鎮魂も合わせて巡礼したいと思った。