ホリショウのあれこれ文筆庫

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第698話 於萬の方こと「長勝院」

序文・家康の側室?妾?

                               堀口尚次

 

 長勝院(ちょうしょういん)〈天文17年 - 元和5年〉は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。江戸幕府の初代将軍・徳川家康側室於萬(おまん)の方、小督局とも。結城秀康徳川家康の次男〉の生母

 天文17年、三河国池鯉鮒(ちりゅう)明神の社人・物部姓(もののべうじ)永見氏の永見貞英〈志摩守〉の娘として誕生する。名は於古茶、松、菊子、於故満と伝わる。随庵見聞録に収録されている本多重次書状写に「おこちゃ」と見えるので、当時本多重次には「おこちゃ」と呼ばれていたとされる。また、『知立市史』では万の母を水野忠政の娘で、於大の方徳川家康の生母〉の外姪とする。

 はじめ徳川家康正室築山殿奥女中で、家康の手付となり、於義伊〈のちの結城秀康〉を産んだとされるが、家康が永見氏を臣従させたときに長勝院を仕えさせることを約束させ、元亀三年に浜松城に仕え、於義伊を産んだともされる。この時、双子であったといわれ、俗に永見貞愛がもう一人にあたるという。知立神社には、長勝院が貞愛の容体を心配して送った手紙が残されている。

 家康の正室築山殿は長勝院が家康の子供を妊娠することについて、承認しなかったため長勝院は浜松城内から退去させられたとされる。それは正妻としての権限であった。正妻は、別妻や妾として承知するどうかの権限を持っていたと考えられる。築山殿は長勝院を家康の妾とすることを承知しておらず、にもかかわらず妊娠したために、女房衆から追放したのである。それが江戸時代になると、妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている。秀康を妊娠した長勝院は重臣の本田重次の差配により宇布見村の中村家で出産にいたっている。城内から追放されたということは、生まれてくる子供を家康の子供として承認しないことを意味していた。

 秀康の子孫である越前松平家系の福井藩を始めとする各大名家では、庶流(しょりゅう)〈分家〉は長勝院にちなみ永見氏を名乗るケースがある。また、家臣団中に長勝院の縁戚である永見氏が複数存在する。

 愛知県知立市にある知立神社近くの総持寺に、「於萬之方誕生地」の石碑がある。