ホリショウのあれこれ文筆庫

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第699話 シャレを言った?織田信長

序文・信長と竹千代の因縁

                               堀口尚次

 

 那古野(なごや)城〈名古屋城の前身〉の織田信秀〈信長の父〉が岡崎城を攻めようとした時、岡崎城主・松平広忠徳川家康の父〉は駿府今川義元に援軍を要請した。義元は見返りに人質を要求したので、6歳の竹千代〈後の徳川家康〉を駿府におくることにしたが、途中で竹千代の護衛係の田原城主・戸田宗光〈家康の義理の祖父〉の裏切りに会い〈織田信秀に銭百貫で買収された〉織田信秀の元に送られることとなった。

 竹千代は一旦、信秀の庇護を受けていた加藤図書助順盛(ずしょのすけのぶもり)〈後の豪商となる〉の熱田の熱田羽城・邸宅〈元名古屋市熱田区〉に預けられた。順盛の娘が作り、なぐさみに竹千代に与えたとされる雛人形が現存しているという。ここで暮らす間に若き織田信長〈信長は家康より9歳年上〉と対面したと推測する説もある。その後、竹千代は織田家菩提寺・萬松寺(ばんしょうじ)〈元名古屋市中区〉に移される。

 こうして竹千代は計3年ほど幽閉生活を送った後、天文18年11月9日、今川義元の画策で、織田信秀の息子・織田信広織田信長の異母兄〉と竹千代の人質交換〈現名古屋市南区笠寺観音で行われた〉が成立し、当時は名古屋よりも繁栄していた駿府へと移送され、義元の元で文武を学び、大きく成長していったという。

 人質時代から20数年後、加藤図書助信盛が家康に陣中見舞を送った際、家康は返事をしたため、江戸に幕府を開いた後、加藤家に家康は140余石の土地を与えて、感謝の意を表したいう。熱田区誌には「これは、人質として預けられた時の厚遇に感謝していたものと考えられ、家康のこまやかな配慮があったもの」という旨の記述がある。

 またこの加藤図書助信盛は、織田信長とも密接な関係で、今川義元を迎え撃った桶狭間の戦いに際し、戦勝祈念のため熱田神宮に立ち寄った織田信長を、加藤家として出迎え、信長は「今日の戦にかたふ〈「加藤勝とうをかけたダジャレ」と語ったとか語らなかったとか…
 桶狭間の戦いでは順盛の子・弥三郎が信長の小姓として参戦し、後に山崎城〈名古屋市南区呼続元町、現・安泰寺〉の城主にもなっている。

 私は過日、熱田羽城跡〈加藤図書助信盛邸宅跡〉・萬松寺・笠寺観音の史蹟を巡り、人質として翻弄された若き日の徳川家康〈竹千代〉を偲んだ。