ホリショウのあれこれ文筆庫

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第701話 徳川家康の知多半島での足どり伝説

序文・伝説の域を出ないが歴史ロマン                   


                                  堀口尚次

 

 天正10年5月21日、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城を訪れ、大接待を、受けた。この際、秀吉より援軍要請があった信長は自ら出陣することを決めたが、家康もこれに従い帰国後に軍勢を整えて西国へ出陣する予定だった。6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意(ほんい)し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った〈神君伊賀越え〉。帰国後、家康は直ちに兵を率いて上洛しようとしたが、鳴海で秀吉が光秀を討った報を受けて引き返した。

 以上が通説であるが、愛知県知多半島常滑市半田市には、伊勢国から海路で三河国に戻る途中に立ち寄ったとされる寺が四カ所あり、「柴船大権現」「権現井・権現社」という祠もある。

①東龍寺

住職・祖誕上人徳川家康従弟(いとこ)であったから、桶狭間の戦い本能寺の変の際には岡崎城に戻る途中の家康をかくまっている。手助けしてくれた返礼に家康から贈られたと伝わる掛け軸には、若き日の家康の肖像が描かれている。

②正住院

本能寺の変の際、徳川家康は本国である三河に帰る途中に、この寺の裏側の海から上陸したと伝わる。境内に「徳川家康公腰掛の石」がある。案内板によると『家康公は、正住院の海岸に面した裏門より寺内に入り、ここで休憩した後、庄屋八兵衛に当寺の本寺、半田市成岩(ならわ)・常楽寺まで案内させ、無事三河に帰られました。』とある。

常楽寺

大正13年の火災により古文書などが焼失したが、本能寺の変後に、「家康が堺から伊勢を経由し、四日市〈伊勢白子〉から船を仕立て知多半島伊勢湾側の大野港〈常滑〉から常楽寺経由で三河湾から岡崎へ帰還した」と、大久保彦左衛門が書き残したほか、同じ内容を示す古文書も知多半島に残っている。常楽寺第八世住職は於大の方の妹の子で、徳川家康従兄弟にあたる。このことから、家康が永禄3年の桶狭間の戦い天正10年の本能寺の変天正17年の上洛の際にも立ち寄っており、徳川家康ゆかりの寺として知られている。寺宝として家康が桶狭間の戦いの後、訪れた際に寄進した鐙(あぶみ)と鞍(くら)がある。

④柴舟(しばふね)大権現

常滑の民話」によると『伊勢の白子まで来た家康一行は、そこで柴を積んで常滑へ向かう舟に乗せてもらい、伊勢湾を渡って常滑につきました。常滑では衣川八兵衛という人が柴舟から降りた家康一行を手厚くもてなした上、成岩の常楽寺まで案内しました。常楽寺で休んだ一行は、舟で三河に渡り、無事岡崎の城に帰り着くことができました。』とある。地元では毎年5月に「柴舟権現祭り」が盛大に行われている。※権現とは神となった徳川家康のこと

また「柴舟権現社由来」によると『常滑の浜に上陸した家康公は、市場村に滞在した。村を去る際に、世話になった村人に家康公が常にお守りの神として護持していた観音像を下賜され、爾来(じらい)市場村の人々はこれを権現様として親しみ敬(うやま)いつづけ長い歴史の中で生きてきました』とある。

⑤大善院

徳川家康は、衣川八兵衛に案内されて、成岩の常楽寺へ向かう途中、大善院にも立ち寄りお参りをしたという。鎮守の白山社にも武運長久を祈願し、「剱 一刀・金 二歩(にぶ)・木馬 一疋(いっぴき)」を奉納したと伝わる。外山住職の「徳川家康考」によれば『当時の知多半島は、織田の息がかかる大野港や野間内海師崎港に廻船団を要し、伊勢湾を拠点に出陣の知らせがあれば、水軍に早変わりして威勢を振るっていた。また伊勢湾には、揖斐川木曽川という大河川が流れ込み潮流の影響が大きい上に、不審船に神経を尖れせ叛旗を警戒する中を通過するには、土地勘のある水先人が不可欠である。一方、信長の命で官窯を美濃瀬戸の焼き物に独占され、常滑では瓶や日用陶器が主に焼かれるだけで、16世紀になると燃料の薪も枯渇して、港の近くに穴窯や登り窯を築いて、薪は伊勢方面から運び始めている。花形の商業船に比べ、薪や瓶を積んで柴船が往来する常滑は世間の注目を浴びることが少なく、怪しまれず上陸するには最適な港ふだといえる。さらに常滑城は、家康の母於大の大叔父水野監物忠綱が初代となる居城で、文明元年、入城した忠綱は、鬼門に位置する大善院を領内安全の祈願所として再興していた。三代城主守隆〈直盛〉の妻総心尼は、於大の兄緒川城主水野信元の娘で家康と従兄弟になり、上陸しても危険が少ないと思われるが、この状況下では回避するのが懸命である。6月5日朝、海路で常滑浜に上陸。成岩街道へ向かう途中の奥条村に、常滑城主水野監物に縁を頂く大善院が中道脇にあり、一行は寺に立ち寄り神仏のご加護と一息ついて、間も無く、急ぎ小隊を整え東路へ成岩まで進んだのち、船で三河大浜に上陸して岡崎に帰城した。』とある。

⑥権現井

知多郡武豊町に「権現井」という昔話があり、権現社の祠と井戸がある。武豊町の民話「権現井」によると『本能寺で織田信長明智光秀に不意討ちされたのは、天正十年六月二日のことでした。その時、岡崎城徳川家康は、信長の命令で泉州堺へ兵を進めていましたが、密偵からの急報で、本陣は大さわぎとなりました。京都の知恩院を出て信長公に殉死すると言い張る主君をなだめ、ひとまず三河へ帰り、善後策を講じようということになりました。しかし、帰国の途は苦難の連続でした。光秀は、信長が最も信頼し、その後継者となる者は徳川家康に違いないと考えていたからです。光秀方の探索の手は、網の目のように、要所要所へ張りめぐらされておりました。やむなく家康一行は、本多平八郎を初めとして、榊原小平太、石川数正酒井忠次大久保忠佐ら十数人になり、他はそれぞれに、三河を目指すことにしました。河内、山城、伊賀、柘植、伊勢、鈴鹿川と逃避行が続き、白子浜から小舟で知多常滑の庄に上陸、人目を避けて成岩の常楽寺を目指します。そして、この富貴の里で、とうとう追手にとり囲まれそうになってしまったのでした。…太った体を折りかがめて、井戸の中に身をひそめた家康主従も、そこかしこの物かげや草むらに、目をぎらぎらさせ、刀のつかに手をかけて息を殺す家臣たちには、それは、やり切れなく長い時間が過ぎていきます…。しかし、平八郎のとっさの機転は、一瞬の差で家康の身を救うことになりました。ガヤガヤと声高にざれ言を言い合いながら、追手は気づかずに通り過ぎていきました。九死に一生を得た家康主従は、たがいに幸運を喜び合いましたが、まだまだ敵中で、油断はなりません。家康を中心に一段は黒い固まりとなって、折からの闇の中へ、ひそと消え去りました。無事常楽寺に入ることができた家康は、三河大浜を経て、岡崎城へ帰着できました。』とある。