ホリショウのあれこれ文筆庫

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第702話 初めてイギリスに帰化した日本人・山本音吉

序文・遺灰の帰郷

                               堀口尚次

 

 山本音吉は、文政2年 - 慶応3年は、江戸時代の水主(すいしゅ)・漂流民。後にはジョン・マシュー・オトソンと名乗った。ロンドンに初めて上陸した日本人とされ、マカオで現存する最古とされる日本語訳の聖書の編纂に関係し、モリソン号事件では漂流民として船に乗り、上海でデント商会に勤めた。1849年のイギリス船マリナー号の浦賀来航に際し、中国人「林阿多(リンアトウ)」と名乗り通訳として同行し、更に1854年の日英和親条約締結の際に通訳としてイギリス側に同行した。また、初めてイギリスに帰化した日本人とされており、ほぼ地球を一周した。

 文政2年尾張国知多郡小野浦〈現・愛知県知多郡美浜町〉に生まれる。天保3年10月、米や陶器を積んだ宝順丸が江戸に向けて鳥羽に出航したが、途中遠州灘で暴風に遭い難破・漂流した。14ヶ月の間、太平洋を彷徨った末、ようやく陸地に漂着したときには、生存者は音吉を含め岩吉、久吉の3名〈3名を「三吉」と呼んでいた〉のみであった。残りの乗組員は壊血病などで亡くなった。

 文久2年はじめ、音吉は上海を離れて妻ルイーザの故郷シンガポールへ移住し、その地で幕府の文久遣欧使節通訳の森山栄之助らに会っている。この使節団には福沢諭吉も参加しており、再会を果たす。音吉は清国の状況などを福沢たちに説明しており、これらの記録は福澤の著した「西航記」に残っている。   

 慶応3年、息子に自分の代わりに日本へ帰って欲しいとの遺言を残し、シンガポールにて病死した。享年49。日本の元号が「明治」になる1年前であった。音吉のシンガポールでの埋葬は後に記録が確認されるが、1970年に都市開発のため墓地全体が改葬されたことから、その後の捜索は難航した。

 2004年になってようやく墓が発見され、遺骨の発掘に成功する。遺骨は荼毘に付されてシンガポール日本人墓地に安置され、一部が翌2005年に音吉顕彰会会長で美浜町長らの手によって、漂流から実に173年ぶりに、祖国日本に戻ることになる。現在、遺骨は美浜町の音吉の家の墓と、良参寺の宝順丸乗組員の墓に収められている。

 私は過日、知多四国霊場遍路で美浜を訪れ、音吉の顕彰碑や「良参寺」の遺灰の帰郷を確認した。