ホリショウのあれこれ文筆庫

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第707話 篠島に残る徳川家康伝説

序文・家康と居眠り和尚

                               堀口尚次

 

 正法(しょうほう)禅寺は、愛知県知多郡南知多町大字篠島字神戸219番地にある曹洞宗の寺院。中興は仙鱗等膳(せんりんとうぜん)和尚。仙鱗等膳が駿河国駿府で修行していた際、今川義元の人質だった徳川家康を闇に紛れて連れ出し、篠島で70日間世話したという伝承が残る。仙鱗等膳は遠州三山のひとつである可睡斎(かすいさい)の11世となり、正法禅寺は可睡斎の直末寺となった。篠島には、正法禅寺の前身ともいえ、家康をかくまったとされる「妙見斎(みょうけんさい)〈等膳和尚がいた寺〉跡」も残っている。

 可睡斎は、静岡県袋井市久能にある曹洞宗の寺院。寺紋は丸に三つ葵である。江戸時代には「東海大僧録」として三河国遠江国駿河国伊豆国曹洞宗寺院を支配下に収め、関三刹(かんさんさつ)と同等の権威を持った。遠州三山の一つ。可睡斎の第11代住職仙隣等膳は小僧時代に臨済で、今川義元の人質となっていた松平竹千代後の徳川家康の教育を受け持ったことがあった。後に浜松城主となった家康はその時の恩を忘れず、旧交を温めるために等膳和尚を城に招いた。ところが道中の疲れもあり、当時を懐かしむ話をしている最中に、和尚は居眠りを始めてしまった。その様子を見た家康は「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と言い、以来和尚が「可睡〈眠ってもいい〉和尚」と呼ばれたことから、いつしか本来東陽軒であった寺の名も可睡斎となった。また、境内には三方ヶ原の戦い武田信玄の軍から逃れた家康が隠れたとされる洞窟出世六の字穴として今も残されている

 医徳院は、愛知県知多郡南知多町大字篠島照浜27にある真言宗豊山派の寺院。行基が医王寺十二坊の一つとして開創し、建暦2年に奥の院神宮寺として篠島に移転したと伝わる。寛正元年、夢のお告げで漁師が引き揚げたのが本尊の薬師如来像という。天正10年、本能寺の変により徳川家康岡崎へ戻る途中、ここで一泊して武運長久を祈願しという伝説が残っている。

 慶長元年には徳川家康悪天候のために篠島で足止めされたが、板谷金兵衛が吉田豊橋市まで無事に送り届け、その報償として駿河遠江三河尾張・伊勢・志摩・紀伊の計7ヶ国における漁業権、渥美半島の外浜と西浜の営業権〈総称して「金べさのお墨付き」〉を得たという伝承が残っている。