ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第914話 鬼頭勘兵衛(吉兵衛)景義

序文・清和天皇の子孫

                         堀口尚次

 

 鬼頭勘兵衛吉兵衛景義新田開発の第一人者であり、江戸時代の寛永8年から明暦3年に至る27年間に尾張や美濃で、多くの新田開発や治水事業を行った。源為朝の子孫といわれ八田村中川区八田町〉に在住していた。土木工事の技術に優れた才能を持ち、新田開発に東奔西走し、その総石高は2万3千石にも及んだという。現在の名古屋市中川・港・熱田区の中島新田、中野内・外新田、東・西福田新田、熱田新田などが含まれる。晩年は仏門に入り、自ら道龍山空雲寺を中島新田に開いた。中川区中島新田の空雲寺には景義の墓碑と木像がある。この地に居住した景義直系の子孫には、代々勘兵衛を名乗る者が多く、そのため勘兵衛屋敷と呼ばれたという。明治13 年明治天皇行幸に際しては行在所に指定された。現在は港区春田野に「鬼頭勘兵衛宅長屋門」が史跡として残る。港区七反田には、景義が東福田新田を開拓したとき、この地が、庄内川と戸田川の中間にあたり、工事犠牲者のめい福と堤防が切れないようにとの願いをこめて建立したと伝わる「地蔵堂」がある。

 新田の開拓に尽力した景義が熱田新田の干拓工事に携わっていた時、夢枕に観音さまがたち、「この場所〈須成〉に水の引くところがある。そこに鶴がとまったらその場所から埋め立てを始めるように」告げられ、その通りにしたら首尾よくいったので番割ごとに観音を祀ったと言う口伝が番割観音の十二番に残っているという。

 鬼頭氏は、織田家などを輩出した現愛知県である尾張国愛知郡古渡里が起源で、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏。氏祖は鎮西八郎為朝の妾の子「尾頭次郎義次」が、紀州の鬼賊退治の勅命を受けて手柄をたてた恩賞で鬼頭の姓を賜わった。 現愛知県を中心に末裔が分布したのは、中興の祖である「鬼頭吉兵衛景義」が2万2千4石余りの新田を開墾した。後に黄檗萬福寺木庵禅師に願い出て「法体」となり、道龍山空雲寺を開基して、鬼頭家代々の菩提寺とする。景義の4人の子供は熱田区熱田新田・海東郡福田新田・濃州安八郡大牧新田、中川区中島新田へと分散した。