ホリショウのあれこれ文筆庫

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第964話 大垣城に残る「おあむの松」

序文・城から脱出した姫

                               堀口尚次

 

 『おあん物語』は、江戸時代前期に老尼(ろうに)〈年とった尼僧〉から聞き書きした戦国時代の体験記。表題は『おあむ物語』、『御庵物語』とも表記される。石田三成の家臣・山田去暦(きょれき)の娘であった老尼が、少女時代に体験した関ケ原の戦いの頃の様子を子供たちに語った話の筆録で、 正徳年間の成立とされる。表題の「おあん」〈お庵〉は老尼の敬称である。戦国時代の武家の暮らしを女性の立場から描写した貴重な史料とされる。

 おあんの父親・山田去暦〈父は徳川家康が幼少の頃に手習いの師を務めた山田宗純〉は知行300石取りの武士で彦根に暮らし、慶長5年の関ヶ原の戦いの頃は石田三成の配下として大垣城を守備した。おあんは徳川家康方の軍勢から石火矢を打ち込まれる中で、母や城内の女性たちと城の天守にて鉄砲玉を作り、味方が討ち取った敵将の首に札を付けて天守に並べ置き、毎夜これに鉄漿(かね)〈お歯黒〉を付ける作業をし〈戦においてお歯黒付きの武士は身分が高いとされていたため、のちの恩賞のため鉄漿首を作ったという〉、寝泊まりもしたということ、目の前で14歳の弟が撃たれて死亡し、落城間近となった籠城中の去暦の家族の元に、徳川方の配下の者より「愈々明日には落城すると思うが山田去暦殿の父は、かつて家康公の手習い師匠であったので逃げるなら見逃そう」という矢文が届く。その誘いに乗って夜中に天守の西側にあった腰曲輪のの木に縄をかけ、それを伝って内堀に降り、お堀をたらいに乗って逃げた。逃亡の途中で母が女児を出産した際は田の水で産湯を使ったことなどが語られる。おあんはまた、彦根時代は貧しく、一日2食で、着る物も13歳から17歳まで同じ帷子(かたびら)〈裏地のない着物〉一枚だった、などのことも述懐し、今時の若者は衣服に凝り、金を費やし、食べ物に様々な好き嫌いがあり、沙汰の限りであると言って彦根時代の話を持ち出して子供たちを叱ったため、子供たちからは「彦根婆」と呼ばれた。

 大垣城には樹齢300年ほどの大松があったが、第二次世界大戦の直前に枯れたために植え継ぎし、昭和44年に2代目「おあむの松」の命名式が催され、解説板が設置された。大垣では毎年4月に物語を元にしたイベント「水の都おおがきたらい船」が開催される。

※筆者撮影