ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1041話 二本松少年隊

序文・戊辰戦争の悲劇

                               堀口尚次

 

 二本松少年隊は、幕末の二本松藩〈現・福島県二本松市〉において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊。幕府側で戦った。ただし、会津藩の白虎隊と違い当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からである。

 戊辰戦争への出陣は14歳未満では不可能なのだが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算する入れ年実年齢より高い年齢として出兵の許可を出すという独自の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳となってしまった

 八番組組頭・丹羽右近率いる大壇口守備隊の大砲方銃士隊として編成されていた木村銃太郎指揮下の25名が特に有名である。木村は、藩の西洋流〈高島流〉砲術師範〈元は同じ砲術の武衛流師範で後に江戸留学の際に西洋流〈高島流〉砲術を習得した人物であり、隊士は彼の父・木村寛治の開いた木村道場の塾生であった。26日朝ないし27日朝に編成を命じられ、27日夜に編成を完了した。大壇口での戦いにおいて木村をはじめその多くが戦死した。負傷し新政府側の野戦病院として使用されていた称念寺に運ばれた者もいたが、やがては息絶えてしまった。これらの出来事は、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られている。

 戊辰戦没者五十回忌では、少年のみで構成されていた木村隊の21名に別隊からの編入者4名を加えた25名を指すものとしていた。ただし、藩内各地に出陣した他の隊でも主に鼓手として少年兵が所属しており、昭和元年に刊行された「二本松藩史」以降は彼らも包括して二本松少年隊と定義することとなった。

 現在では、紺野庫治氏の最終調査研究結果報告、昭和56に刊行された『絵でみる二本松少年隊』により明らかとなった高根三右衛門隊3名、丹羽右近隊2名、大谷与兵衛隊2名、大谷志摩隊2名、大谷鳴海隊2名、日野大内蔵隊2名、樽井弥五左衛門隊4名、朝河八太夫隊1名、その他所属部隊不明の22名を加えた合計62名を定義している。なお、当初木村隊のそれは幼年隊と呼称されていたようである。

 二本松藩主・丹羽氏の菩提寺でもある大隣寺に戦死者16名の墓所がある。また二本松城跡である霞ヶ城公園には群像彫刻や顕彰碑が立っている。