ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1080話 漁師から旗本になったジョン万次郎

序文・英語を話した日本人

                               堀口尚次

 

 ジョン万次郎〈文政10年 - 明治31年〉は、江戸時代末期から、明治にかけての日本の旗本・翻訳家・教育家。アメリカ合衆国を訪れた最初の日本人の一人であり、日米和親条約の締結に尽力した。通訳教授などでも活躍した

 アメリカ人からはジョン・マンという愛称でも呼ばれた。帰国後は本名として中浜万次郎を名乗った。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、昭和13年に第6回直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』〈井伏鱒二〉で用いられたことによって広まったもので、それ以前には使用されていない。

 万次郎達は足摺岬の南東15キロメートルほどの沖合で操業中、突然の強風に船ごと吹き流され、航行不能となって難破してしまう。5日半を漂流した後、伊豆諸島にある無人島の一つである鳥島に漂着し、この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延びた。同年、万次郎達は、ウィリアム・ホイットフィールド船長率いるアメリカ合衆国捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料として海亀を確保しようと島に立ち寄った際、乗組員によって発見され、救助された

 しかし、その頃の日本は鎖国していたため、この時点で故郷へ生還する術はなく、帰国の途に就いた捕鯨船に同乗したままアメリカへ向かわざるを得なかった。ハワイのホノルルに寄港した折、救助された5名のうち万次郎を除く4名は、宣教師で、ハワイ王国の顧問の計らいで当地で下船している。寅右衛門はそのまま移住し、重助は5年後に病死、筆之丞〈伝蔵〉と五右衛門はのちに帰国を果たしている。

 一方、ただひとり万次郎捕鯨船員となって船に乗り続け、アメリカ本土を目指すことになった。これは、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られたためでもあるが、何より本人が希望した処遇であった。航海中の万次郎は、生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いている。また、航海中、アメリカ人の乗組員からは、船名にちなんで「ジョン・マン 」の愛称で呼ばれた。

 嘉永4年、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、翁長で牧志朝忠から英語で取り調べを受けたり、地元住民と交流した後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化などについて質問した。斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示した後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校〈開成所〉の英語講師として招いている

 薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリシタンでないことを証明させられたが、慣例として残っているのみで、描かれた絵はほぼ解読不能に等しく、何かよくわからないまま踏んだという。加えて、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に中浜を同居させて聞き取りに当たった河田小龍万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』を記した。約2か月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永5年、漂流から11年目にして故郷に帰り、母と再会することができた。

 嘉永6年7月8日にペリーが江戸に来航し、7月17日に江戸を後にしたが、来春の黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、7月25日に万次郎は幕府に召聘されて江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた万次郎江川英龍の配下となり、江川は長崎で没収された万次郎の持ち物を返還させた。勘定奉行川路聖謨からアメリカの情報を聞かれ、糾問書にまとめられている。1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書〈英語版〉』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。土佐藩の藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。理由の1つには、中浜がアメリカ人と交友することをいぶかしがる者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは中浜万次郎1人だったため、マシュー・ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、〈オランダ語を介しての〉通訳の立場を失うことを恐れた老中スパイ疑惑を持ち出し、結局はペリーの通訳の役目からは外された。実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。

私見】BS歴史番組ではスパイ疑惑の裏に、水戸藩徳川斉昭の影が見えると報じていた。斉昭は攘夷派の急先鋒だったので仕方がないという見方だった。