序文・巴御前のライバル?!
堀口尚次
山吹御前は、平安時代末期の女性。源義仲〈木曽義仲〉の便女〈文字通り便利な女の意味で武将の側で身の回りの世話をする召使いの女〉といわれている。
『平家物語』によると、巴(ともえ)御前〈義仲の妾〉と共に信濃国から京へと付き添ってきたが、義仲の敗北の際には病で動けなかったため同行できなかったとされ、名が出るのみで直接的には登場しない。また名が記されているのは軍記物語の『平家物語』のみであり、当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』にはその存在は確認されない。『平家物語』でも語り本系のみに登場し、読み本系の「延慶本」や『源平盛衰記』には登場しない。
なお『源平盛衰記』において巴とともに言及される女武者は「葵」という女性で、義仲討死の段において「木曾殿には、葵、巴とて二人の女将軍あり、葵は去年の春礪波(となみ)山の合戦に討れぬ」と記されているが、いずれも女武将であるという物語の記述は史実としては疑問があり、文学的脚色である可能性が高い。
愛媛県伊予市〈旧双海町と旧中山町〉にかけての一帯に、山吹に関する伝承がある。義仲が伊予守であったという事実から、山吹が伊予国まで逃避行し、又海町上灘の沿岸部に上陸し、上灘川に沿って東方向に移動する中で息を引き取り、中山町佐礼谷(されだに)の山中に埋葬されたという内容である。このルート上で、伊予市立翠(みどり)小学校付近の大栄口から佐礼谷方面への上り坂は、病に倒れた山吹の屍を笹舟に乗せて引き上げたことから「曳(ひ)き坂」という名前が残り、山吹の墓とされる五輪塔が残る集落は山吹集落という名前であり、山吹神社が鎮座する。佐礼谷には山吹集落の北側に「源氏」という名前の集落もある。また、伊予市立翠小学校付近の集落では、山吹が追手から見つかるのを防ぐため、幟を揚げることを控えたとされ、現在も住民は慣習として鯉のぼりを揚げない。同様の例は平家の落人の里にも散見される。
また、滋賀県大津市には、京洛より義仲を追って逢坂山を越え近江へ入ったところ、現在のJR大津駅の地にあった秋岸寺で敵刃に倒れたとの伝承がある。現在大津駅のそばに「山吹地蔵」の小祠がある。山吹の供養塔と言われるものが、三条京阪駅南の旧有済小学校の敷地内にある。樹齢350年という椋(むく)の木の下に、五輪塔と石碑があり、「山吹御前供養塚」と読める。