序文・鬼作左の日本一短い手紙
堀口尚次
本多重次(しげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。通称は作左衛門(さくざえもん)。享禄2年、本多重正の子として誕生した。通称の作左衛門と、剛邁(ごうまい)で怒りやすいことから、「鬼作左(おにさくざ)」と綽名(あだな)された。
三河国の戦国大名・徳川家康に仕え、天野康景、高力清長(こうりききよなが)と共に三河三奉行の一人として、行政面に力を発揮した。奉行に登用された時、非道な事はせず、依怙贔屓(えこひいき)をせず、明白に沙汰を遂げ、物事の埒(らち)が早く明くので、皆が驚いた。
家康の次男・結城秀康の母・於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。家康は築山殿の悋気(りんき)〈嫉妬心〉を恐れ於万を重次の許に預け、秀康は重次に匿われている中村家〈浜松城の近く〉で誕生した。この中村家は現在の浜松市中央区雄踏町に現存し、国の重要文化財・中村家住宅となっている。築山殿が於万を別妻〈側室〉にすることを承認しなかった為〈浜松城から退去させられたという説もあり〉天正2年於義丸〈結城秀康〉を中村家で出産。中村家の庭に秀康の後産〈胎盤〉を埋めたとされる場所〈胞衣塚〉に梅の木があるが、この梅の木は天正4年家康が中村家を訪れたときに秀康誕生の祝いに植えたと伝わる。
天正13年3月に家康が腫物をこじらせて重態に陥った時、治療を勧める医師の話に耳をかさない家康に業を煮やした重次は、「殿にはさてもさても分別のないにわか療治をなされたあげく犬死されることよ。ご自身で望まれたこととは申しながら、なんと惜しい命であることか……」「この作左お先にお供をつかまつる……。されば今生のお暇(いとま)ごいをただ今申しあげる」と切腹の準備にとりかかったため、家康が折れて腫物の治療を受け、事なきをえた。
重次は気性が荒く、家康にも遠慮なく諫言した。また武勇に秀でており、三方ヶ原の戦いでは大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ、首をかき切ってその馬を奪って浜松城に逃げ込んだ、という逸話も伝わる。
性格に関して新居白石〈江戸中期の旗本〉は「重次は恐ろしげに見え、言いたい放題を言い、思慮のあるようではなく、奉行など務まる柄ではないように思えた。だが心正しく、しかも民を用いるのに配慮があり、訴訟をよく聞き事を明らかにした」と評価している。
領地の民に法令を触れ回る時の立て札は、難しい言い回しを避け、ひらがなでわかりやすく大きな字で書かせたという。そして最後に「右に背くと、作左が叱る」という文言で締めたという。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文は、重次が天正3年の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙とされ、日本一短い手紙として有名である。この「お仙」は当時幼子であった嫡子・仙千代〈成重〉のことである。なお、実際の手紙の文は広く知られているものとは微妙に異なり「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」である。
重次は頑固で他人に厳しい人物と見られがちだが、この手紙は唯一の息子である仙千代を心配し、自らが留守中に家中を取り仕切る妻に「火事に気を付けるように、使用人への徹底を改めてするように、そして5人の子のうち男子は仙千代だけだから病気に気を付け、武士にとって戦場で命を預ける馬の世話を怠りなくせよ」と妻子を気遣う優しさが見え隠れしている。
なお、後に仙千代は、豊臣秀吉への人質として秀吉の養子となった結城秀康の小姓として大坂に送られたが、その翌年に重次は仙千代と甥の源四郎〈後の本多富正〉を無断で交代させた。重次の行動は、実子の安否と出世を懸念した〈秀康は実父・家康に疎まれていたので先が危ぶまれていた〉とも、不遇の兄の子を出仕させその出世を望んだとも解釈できるが、この行動が秀吉の怒りに触れ、重次は家康によって上総国古井戸〈現在の千葉県君津市〉3,000石にて蟄居を命じられている。さらに、結城秀康が越前藩一国68万石を与えられると、源四郎こと富正は付家老として3万9千石を与えられた。当時、仙千代こと成重は幕臣として5,000石を与えられていたが、慶長18年に、秀康の子・松平忠直の附家老として、越前丸岡4万石を与えられる。一説には、重次が送り込んだ甥の出世を見て、実子を福井藩にねじ込んだ〈なので新参なのに石高が富正より少し高い〉とも言われているが、秀康の越前移封よりも前に重次は死去しているのでこの話は成り立たない。
本多重成は、越前丸岡藩の初代藩主で本多重次の長男。幼名は仙千代で、父・重次が天正3年の長篠の戦いの陣中から妻に宛てた手紙として知られる、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙である。現在、丸岡城内には「一筆啓上碑」がある。福井県坂井市丸岡町には「一筆啓上賞 日本一短い手紙の資料館」もある。更に坂井市内には「一筆啓上…」の看板も建つ。