ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1096話 晒首にされた千利休

序文・茶の湯と権力

                               堀口尚次

 

 千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人、商人。わび茶〈草庵の茶〉の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流があった。子孫は茶道の三千家として続いている。千利休は天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、豊臣秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」の中で、多くの大名にも影響力をもった。しかし秀吉との関係に不和が生じ始め、最期は切腹を命じられた。死に至った真相については諸説あり、定まっていない。

 和泉国・堺の商家〈屋号「魚屋(ととや)」〉の生まれ。幼名は田中与四郎、のち法名千宗易(せんのそうえき)と号した。広く知られた利休の名は、天正13年の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないため、正親町天皇から与えられた居士号である。号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ〈才能におぼれずに「老古錐=使い古して先の丸くなった錐」の境地を目指せ〉」と考えられている。「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗っている。

 天正15年には、北野大茶湯を主管。同年完成した聚楽第内に屋敷を構え、築庭にも関わり、禄も3,000石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易利休に」と忠告された。

 天正19年、利休は突如秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる大徳寺の山門は応仁の乱によって大破し、長らく放置されていた。利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継ぎ、門の上に閣を重ねて楼門を造り、金毛閣を寄進した。その落成にあたって山門供養のために利休が春屋和尚に依頼し、その求めに応じて書かれたのが「千門萬戶一時開」の一偈である。この文は、利休の影響力が自分の影響力を超えていると考え、秀吉を怒らせた。京都に呼び戻された利休聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70 。死後、利休の首は一条戻橋で梟首(きょうしゅ)〈晒(さらし)首〉された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。墓所大徳寺聚光院。