ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1120話 織田豊臣徳川に仕えた丹羽氏次

序文・紆余曲折の忠臣

                               堀口尚次

 

 丹羽氏次(にわうじつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。氏次系丹羽家初代。天文19年、丹羽氏勝の長男として尾張国岩崎〈現・愛知県日進市岩崎町〉に生まれる。父の後を継いで織田信長に仕えた天正8年に父・氏勝が信長の勘気を被って追放されているが、氏次にはその影響は及ばなかったようで、以後、織田信忠〈信長嫡男〉の家臣として仕え天正10年の甲州征伐では木曾義仲織田長益らと共に信忠軍団の一員として武田領内へ侵攻している。

 本能寺の変で信長が死去した後はその次男・信雄に仕えて各地で武功を挙げたが、信雄と対立してその勘気を被ったため、翌天正11年に徳川家康の家臣となった天正12年の小牧・長久手の戦いでは岩崎城を弟・氏重に守らせ、自身は家康に従って小牧に赴いて武功を挙げた。しかしこのとき、池田恒興森長可の猛攻を受けて氏重は討ち死にしている〈岩崎城の戦い〉。

 その後、家康の取り成しで再び信雄に仕え伊勢国内に7千石を与えられた。しかし小田原征伐後に信雄が改易されると、再び家康の下で仕えようと豊臣秀吉に懇願したが、秀吉の命により豊臣秀次に仕えることとなる。このとき、長男・氏資(うじすけ)を家康に仕えさせている。慶長5年の関ケ原の戦いでは氏次は東軍に属し、家康より尾張三河を結ぶ重要拠点・岩崎城の守備固めを命じられる。また家康の命により西軍・石田三成に味方する岩村城主・田丸直正の攻撃に備えるため妻木頼忠の妻木城の防備を強化する工事のため数百人の人夫を送った。その後、関ヶ原本戦にも参加した功により、家康より三河国伊保に1万石を与えられ、その初代藩主となった。翌慶長6年3月19日に死去。享年52。跡を次男・氏信が継いだ。

 伊保(いぼ)藩は、三河国加茂郡上伊保村〈現在の愛知県豊田市〉に存在した藩。藩庁は伊保陣屋。御山前陣屋。氏信は大坂の陣で武功を挙げたことなどから、寛永15年に2万石加増の上で、美濃岩村藩に移封となり、伊保藩は廃藩、その所領は幕府領となった。なお、この丹羽氏は織田信長の家臣だった丹羽長秀とは血縁関係は無い。だが氏次は信長に仕え、その死後に徳川家に仕えたため、譜代となった

私見】小牧長久手の戦いの長久手合戦の前哨戦・岩崎城の戦いでの丹羽氏重〈氏次の弟〉の戦功を讃えた徳川慶喜・揮毫の「表忠義碑」が岩崎城址にある。

※筆者撮影