ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1134話 針尾送信所

序文・ニイタカヤマノボレ一二八○

                               堀口尚次

 

 針尾送信所は、大正11年、旧東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)崎針尾村〈現在の長崎県佐世保市針尾〉に大日本帝国海軍によって建造された無線送信所第二次世界大戦後も平成9年まで海上自衛隊および海上保安庁の無線施設として運用されていた。

 日本国内で大正時代に建設された塔状構造物としては唯一現存する最も高い構造物である。「旧佐世保無線電信所〈針尾送信所〉施設」の名称で国の重要文化財に指定されている。地元では「針尾の無線塔」と呼び親しまれている。

 日露戦争後、無線通信の重要性を認識した日本海軍は、明治43年に東京、佐世保、台湾に無線局を建設することになった。針尾送信所大正7年に着工し、大正11年に完成した。当時の短波通信技術は電離層の影響を受けやすく、針尾送信所が建設された背景には長波通信の必要性の高まりもあった。船橋送信所が鉄塔で建設されたのに対し、針尾送信所が鉄筋コンクリートであるのは、鉄材の高騰や潮風による腐食対策のためとされているが詳細は不明である。

 太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ一二八〇」を送信した電波塔として名前が挙げられることがあるが定かではない。この暗号を真珠湾部隊に向けて送信したのは千葉県舩橋市の船橋送信所〈艦船向けの短波と中波〉と愛知県碧海郡依佐美(よさみ)村の依佐美送信所〈潜水艦向けの超長波〉であると考えられている。

 太平洋戦争中には無線通信には主に中短波が使用されるようになり、針尾送信所の重要性は薄れ、戦争末期には無線塔は食料倉庫としても使われていた。昭和23年には第七管区海上保安本部佐世保海上保安部針尾送信分室が開設され、海上自衛隊も昭和29年の発足時から共同使用していた。しかし、針尾送信所の象徴であった巨大電波塔は、平成9年に後継の無線施設が完成したことにより電波塔としての役割を終えた。

 針尾島内では他に、浦頭引き揚げ記念公園や現在のハウステンボス南風崎駅〈本土〉近辺の慰霊碑などに、第二次世界大戦の痕跡がのこっている。

私見】依佐美送信所に関しては、第24話「ニイタカヤマノボレ」でも言及している。